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ITALY NEWS
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2010/5/31 


zoom-up


バチカンに考える
第5回 バチカンから見たイスラム


駐バチカン大使  上野 景文

1.はじめに
4年前(2006年9月)、就任1年余を経たローマ法王ベネディクト16世が、古巣であるドイツのレーゲンスブルグで行った講演の中で、「イスラム教には剣をもって信仰を広める」体質があるとする14世紀の東ローマ帝国皇帝の言葉を引用したことに、世界中のイスラム教徒が一斉に反発し、バチカンがその沈静化に躍起となったいわゆる「法王失言事件」をご記憶のことかと思う。事件は、その2ヵ月後に行われた法王のトルコ訪問の際、イスラム・モスクを訪問しイスラムの聖職者と並んで祈りを捧げるなど、バチカン側が融和的姿勢を示すことにより一応静まった。が、キリスト教とイスラム教のデリケートな関係を改めて思い起こさせた。

この点を念頭におきながら、以下本稿では、特にカトリック(教会)とイスラムとの関係につき、当地で気づいた諸点を整理してみたい。
此処で最初に断っておきたい点がある。周知のように、欧州で最も深刻な内政問題のひとつとして移民問題がある。他方、西欧(EU諸国)には移民系を中心に1500〜2000万人のイスラム教徒がいると言われている。このため、イスラム教徒をどう遇し、どう統合するかという「イスラム問題」は移民問題とは不可分の関係にある。ずばり言えば、西欧では「イスラム問題」とは即「移民問題」―――つまり、雇用、貧困、人種(差別)、文化、教育、宗教などの諸側面を包含する総合的社会問題―――なのだ。加えて、ロンドンやマドリッドで、地下鉄・鉄道の爆破をはかった過激派まで視野に入れれば、「移民問題」は治安問題でもある。が、本稿では、社会問題的或いは治安問題的側面には触れず、宗教的側面に絞って話を進める。
もう1点明らかにしておきたい。移民問題は米国でも重要な内政問題ではあるが、米国は西欧とは明確に異なる。目下米国では、アリゾナ州が厳格な移民法を制定したことを契機に、喧々諤々の論争の渦が全米的拡散を示しているが、米国に来る移民は主として中南米から来るヒスパニック―――つまり、太宗はカトリック教徒―――であり、移民問題はイスラム問題とは結びついていない。

前置きが長くなったが、本論に移ろう。以下では、2つの観点に絞ってお話ししたい。第1点は、カトリック関係者が、宗教としてのイスラム教をどう観ているかという話。併せて、カトリックとイスラムの間で展開されている宗教対話の現状についても略述する。次いで、宗教論というか文明論になるが、イスラム教が西欧的モダニズム(近代主義)と協調してゆけるかという問題につき考えてみたい。

2.カトリック(聖職者)のイスラム観

(イスラムは律法主義的か?)
カトリック神学者の発言は中々に難解であるが、神学者Aからこんな話を聞いたことがある。
「単純化して言うと、イスラム教というのは、『回心』する前の聖パウロのイメージだ。すなわち、回心前のパウロは典型的なファリサイ派の律法学者だったが、かれらは律法の字句・字面にこだわり、『律法主義的(legalistic)』であった。反面、その背後にある心、信仰への気配りに欠けるところがあった。信仰心より律法に重きを置いたということだ。イスラムのイメージは、ファリサイ派のイメージと重なるところがある。」 更にこうも付け加えた。
「キリスト教サイドで、敢えてイスラム的な宗派を挙げるとすれば、ブッシュ政権成立の立役者でもある米国南部の保守的プロテスタントということになろう。」

で、以上の見方をイスラム系の哲学者Bに紹介したところ、「とんでもない。」と反論方々、面白い反応があった。
「とんでもない。イスラムが『心』を大事にしないと言うことは断じてない。それに、イスラムは実に多様であり、『一つに括る』ことは無理だ。ただ、『律法主義的』との形容は、聖典の字義にこだわる(サウジのワッハビズムのような)原理主義者には何がしか当てはまるかもしれない。他方、信仰者の『人生』の実態に目配りし、聖典から実存主義的解釈を引き出すスーフィズムには全く当てはまらない。」

別のイスラム学専門のカトリック神父Cからも、神学者Aに似た比較論を聞いたことがある。
「思い切って単純化すると、イスラムの中でも、スンニ派はプロテスタント的、シーア派はカトリック的だ。すなわち、前者は、法理志向が強い反面、神学・哲学志向は弱い。法理志向という意味からは、現代米国社会に通じるものがある。これに対し、後者は、神学・哲学志向が強く、ミスティシズム志向がある点が、カトリック的だ。その意味で、カトリックとシーア派との対話は相通じるものがある。」
そういえば、シーア派の牙城イランはバチカンを重視しており、両者は15年強宗教対話を続けて来ている。

もっとも、3年前ギリシャの国際セミナーに参加した時に会ったさるイスラム系の国出身の歴史学者D(カナダより参加)は、「最近シーア派がスンニ派的になって来ている。」として、こう述べた。
「シーア派がスンニ派に比し法理志向が薄いという見方は間違っていないが、今日事情は変わりつつある。すなわち、近年シーア派は法理志向を強め、『スンニ派的』となって来ている。この点、了知されておいた方が良いだろう。」
恐らく、イランのことが念頭にあったのだろうけれど、実情は私が期待するより遥かに複雑だということだ。

そういえば、「シーア派(イラン)が硬直的」という話は、バチカンのイスラム研究機関PISAIで講演したイスラム国出身の在米の哲学者Eも語っていた。
「本来、イスラム世界は多元的な世界であった。が、イランという国家は、硬直的イスラム観や、シャリア法に関し特定の解釈を押し付けようとする。かれらのやり方は、イスラム的というより、欧州的法律観に立脚したものだ。今日のイランは多分に欧州的要素をはらんでいる。

(カトリックとイスラムとの宗教対話)
これらの話を聞いていると、イスラムの奥深さをかいま見たような気になる。それはそうと、バチカンは94年よりイランとの間で宗教対話を実施して来ている。いや、イランとだけではない。バチカンは、この10〜20年、イスラム4国との間で宗教対話を進めて来ている。バチカン側からは宗教対話庁幹部が、また、イスラム4カ国―――目下、エジプト、サウジアラビア、リビヤ、イランの4カ国だが、近くヨルダンとも実施―――からは、イスラム界の指導者が、夫々参加している。なお、このような2国間対話に加え、バチカンは08年秋には「カトリック・イスラム宗教対話フォーラム」をスタートさせた。カトリック及びイスラム双方から30名弱の聖職者、学者が参加する対話フォーラムで、多数の国の専門家が参加するという意味で、マルチラテラルな対話の場となっている。

宗教対話については、前述のC神父(イスラム学)からこんな話を聞いた。専門用語が入るが、そのままお伝えする。
「自分の経験に照らせば、イスラム・サイドは、カトリックとの対話で、神学的、教理的テーマを取り上げることに関心を示さない。それは、イスラム側が、キリスト教の神学上の根本概念―――神は絶対という意味の『超越性』、託身の神秘を意味する『顕現』、神は万物におはすとする『内在性』の3点セット―――に対し批判的であるためだ。この1300年の対話を通じ、我々は彼ら(イスラム)の批判を覆し、彼らに『成る程』と納得させるような議論を編み出すには至っていない。
だが、カトリック側は決して弱気ではない。現に、数年前法王は、「宗教対話の場で神学・教理の話をすることは考えていない。」と発言していたが、自らの神学への絶対的自信をのぞかせる強気の発言だ。
その意味からいうと、対話の場は、「宗教対話」でなく「宗教家間対話」と呼ぶべきだろう。現に、4カ国との対話で取り上げられているテーマは、人権、女性の権利、信仰の自由などの社会的テーマが中心と聞く。ただ、08年秋に発足したフォーラムだけは、神学上のテーマを取り扱っており、その意味では画期的だ。一昨年の第1回会合では、「神の愛、隣人愛」につき対話した。

(超越性)
先刻、神の「超越性」について触れた。この点については、専門的になって恐縮だが、神学者A はこうも語った。
  「イスラムは(3点セットのうち)『超越性』しか認めない。これに対し、我々の方(カトリック)は、『超越性』だけでなく、『顕現』、『内在性』の3本立てだ。その分、我々の方が『ふくよか』ということになる。」
この「イスラムは『超越性』だけしか認めていない。」という(カトリック側の)見方については、前述のイスラム系哲学者Bから異論を聞いたことがある。
「イスラムの中には、『超越性』に加え、『内在性』も認めているスーフィズムのようなグループもある。この『内在性』、すなわち、『万物の中に神を見る』と言うところに、スーフィズムのスーフィズムたる所以がある。」
この話を聞いた時、3年前イスタンブールで語り合ったビルギ大学の教授Fから聞いた話を思い出した。曰く、「トルコのスーフィズムは、仏教的或いは神道的要素を必ずしも排除していない。」と。そうか、3年前Fから聞いた話は、Bの言う『内在性』と符合するのだと、気がついた。ただ、専門的知見を欠く筆者としては、この問題につきこれ以上踏み込むことはするまい。

更に、カトリック神父Gからこんな見方も聞いた。
「同じ一神教であるイスラムは、キリスト教と『(根本的に)対決する要素』を内包しているため、イエズス会などがアジアの仏教圏で実施してきたローカル文明に適応しながらキリスト教を浸透させる方式(inculturation)は、イスラム社会ではワークしない。」
そう、「両雄を並び立たせる」ことは至難の業のようだ。

(一神教としての純粋度)
読者の中には、以上の神学的議論に面食らわる方もおられるだろう。もっとシンプルに言えないものか?そう、上記の議論を、私なりにより平易な言葉に翻訳すると、こうなる。
「絶対神と人間の間に何者も置かないイスラムの方が、神と人間の間に『神の子』、聖母、聖人などの中間項(パラメーター)を設けているカトリックより、一神教としての純粋性がより高く、「すっきり」している。これに対し、カトリックの方は、純粋性を犠牲にすることを躊躇しないところがある。人々に親しみを与えるためなのだろう。」
この「一神教の純粋性の高低」の問題については、「ZOOM-UP:バチカンに考える」シリーズの第2回に言及した(2008/12/30)ので、参照願いたい。

3.イスラム 対 モダニズム 

(カトリックとイスラムは「同志」的!!)
読者諸氏は、保守的なイスラムの女性が着用するブルカ、ニカブといった宗教的衣装を、公的な場で着用することを禁止するべしとして、フランス、ベルギー当局が準備を進めていることや、この点を巡り、イスラムの中に反発があること、更には、西欧全体で論争が起きていることを、ご承知と思う。目下、西欧のメディアを最も賑わせている話題の一つだ。その際、この話は、「西欧  対 イスラム」という図式で取り上げられることが多い。
が、私はこの図式に疑問を持っている。と言うのは、フランスやベルギーは、「ライシテ」と言う厳格なる世俗主義、政教分離主義を国是として、キリスト教を含む諸宗教をパブリックな場から西欧の中でも最も厳しい形で―――誤解を招くことを厭わずに言えば、原理主義的に―――「締め出して」来ており、今回のブルカ着用禁止のケースは ライシテという西欧モダニズム(近代主義)が伝統的宗教を「いじめている」ケースであり、図式で表せば、「モダニズム 対 伝統主義(宗教)」とした方が分かりやすいからだ。

重ねて言う、イスラムだけではない。カトリックも「ライシテ」の標的となっている。
いや、ライシテという原理は、カトリック教会の強大な影響力を抑え込むことを主眼に19世紀この方フランスで「進化」して来た。だから、本来の標的はカトリック(教会)だった。ごく最近にも、新たな「カトリックいじめ」が進められつつある。そこでは「いじめっ子(?)」はフランスではなく、欧州人権裁判所だ。同裁判所は、昨年、さるイタリア住民の訴えに基づき、「イタリアの公立学校が『キリストの十字架礫刑像』を教室の壁に掛けておくことは、特定宗教を優遇することであり、信教の自由、政教分離の大原則に反する。」として、その撤去を命じた。バチカン・カトリック教会が大反発していることは言うまでもない。蛇足ながら、この件につきロシア正教会がカトリック教会に連帯する旨表明している。このケースも、「 モダニズム 対 伝統主義(宗教)」の問題であり、その意味では、上記ブルカ論争と同質だ。

因みに、米国であるが、オバマ大統領は昨年6月に行ったカイロ演説で、ブルカ規制問題につき、フランス、ベルギーの動きを批判して、イスラム側へのシンパシーを示した。大統領個人の意見という面もあるかもしれないが、宗教活動規制にことのほか敏感に反発する米国社会の体質を反映したものと見る。

似た話しになるが、5年ほど前、デンマークの風刺漫画家が新聞に載せた漫画が預言者ムハンマドをおちょくった絵だったことから、イスラム各国が猛反発したことをご記憶だろうか。このケースでは、フランスやオランダのジャーナリストが、「表現の自由」という錦の御旗を掲げて、漫画家支持のキャンペーンを行ったが、イスラム側は「宗教を冒涜する自由はない」と硬化した。メディアは「西欧 対 イスラム」という文脈でこれを報じたが、此処でも、対立は「モダニズム(=表現の自由) 対 伝統主義(宗教)」と言う方が分かりやすい。この話題につきバチカンは、宗教を冒涜することは遺憾だと表明して、西欧的モダニズムを批判している。言うまでもないことだが。

欧州における2つの文明観の対決、すなわち、「 モダニズム 対 伝統主義(宗教)」は、上記の事例に限られない。カトリック教会について言うと、特に生命・家族倫理に関しての係る諸テーマ、すなわち、事実婚、同性婚、中絶、尊厳死、ES細胞実験などにつき、西欧諸国が総じてモダニズム(近代主義)を踏まえた立場に転じたことを、「相対主義」として強く批判している。これらの問題に絞って言えば、イスラムの立場は反モダニズム、反相対主義であり、総じてカトリックに近い。その意味からは、これらの倫理問題について言えばという条件付きではあるが、「カトリックとイスラムは『対立者』ではなく、むしろ『同志』的だ。」と、私は見ている。

(イスラムと西欧モダニズムとの広範な協調は困難か?)
では、両宗教はより広範囲で共闘することが出来るかと言えば、そうはならないであろう。なぜかと言えば、カトリックの方は、(西欧)モダニズムの提示する中核的項目、わけても、民主々義、自由主義、人権、男女の平等性、更には科学主義などにつき、それら理念を受け入れているのに対し、イスラムの方は、それらの理念をまだフルに受け入れるに至っていないためだ。このため、これら諸項目に関しては、カトリックとイスラムは「同志」とは言い難く、「イスラム 対  西欧」もしくは「イスラム 対 モダニズム」という図式が有効だ。

本稿では以下、この両者間で協調が可能か、(可能だとして)どこまで可能かにつき、イスラム系の国々の事情を眺めてみよう。ということで、今回は国のレベルの話に絞る。この「イスラム 対 西欧」という「2つの文化」の問題は、特に西欧に在住するイスラム教徒個々人にとっても、かれらの文化的・宗教的アイデンティティーに係る根源的問題であるだけに、本来目を向けない訳には行かない。が、物理的制約から別の機会に譲ることとする。
ただ、これだけは言っておきたい。当地で私が交流している在欧のイスラム聖職者・学者(つまり、インテリ層)に限って言えば、彼らは総じて、人権、民主主義といった欧州的な原理を受け入れること、更には、在住国(例えばベルギー)の「良き市民」となることが重要だとしている。もっとも、そう言った割り切りをするのは少数派であり、一般層というか、多数派はそこまでの割り切りが出来ず、悩んでいるようだ

早速、イスラム系の国々に目を向けよう。バチカンの宗教対話庁の幹部Hは、かつて私にこう語った。 「我々がイスラム諸国(の聖職者)と行っている対話は、それを通じて、彼らが、伝統を守りつつ、(西洋的)モダニズムを受容するという日本が開拓した『道』を、彼ら(イスラム系の国)にも歩んでもらうことを期待しているのだが、どうもそうならず、悩ましく思っている。」

モダニティーを拒否しがちなイスラム系国家の体質に触れたこのH神父の指摘は、実に本質を突いた重要な発言だ。が、H神父の期待は楽観的過ぎるように思えた。この問題については、昨年秋当地のテベレ研究所という宗教対話機構で講演した際、H神父の悩みに触れつつ、「悲観論」を述べた。
「イスラム系国家、特に保守的な国々は、その一神教的メンタリティー故、『全て拒否する』と言うアプローチになりがちで、部分的に受容するという『是々非々』アプローチは苦手だ。これは、多神教的メンタリティーが強いが故に、『是々非々』アプローチが得手である日本人と、好対照をなす。文明観・メンタリティーの違いが、西洋モダニズムに対する日本とイスラム系国家の姿勢に違いをもたらしている。このような根深い違いがある以上、かれら―――特に保守的な国―――が、近い将来突然変異して、『日本的に振舞う』ようになることは、期待出来ない。」
この観点は、この10〜15年間私が追求し続けて来たテーマであり、4年前上梓した拙著「現代日本文明論(神を飲み込んだかみがみの物語)」(第三企画)でも論述したので、エネルギーの或る方は、参照願いたい。

理念的な話、モデル論はこの位にして、現実論に移ろう。実際のイスラム系国家は多様であり、モダニティーをかなり受容した国から、制限的な国まで、多様だ。そこで、制限派、容認派、中間派のそれぞれにつき、様子を眺めてみよう。

●制限派
まず、制限派から述べよう。典型的事例としてサウジアラビアがある。「2つの聖地」を擁する同国は、聖地、ひいては、イスラムの守護者を自認しており、このため、@いまなお国内でのキリスト教(を含む異宗教)の実践を(聖地を汚すものとして)禁じる一方で、Aイスラム的原理に従うべきとの保守的姿勢―――モダニズム拒否―――を国内に強いている。
特にミサ禁止の問題については、同国には、フィリピンからの出稼ぎ者を含め多くのカトリック教徒がいるため、バチカンは大いなる不満を有し、事態改善を求めている。バチカン幹部からはよく、「欧州ではイスラム教徒は自由に礼拝出来るのに、キリスト教徒はサウジで何故礼拝できないのか。」との声を聞く。つまり、対称性を求めるという要求だ。
ミラノ在住のジャーナリストIはこう解説する。
「聖地とも言うべき同国の国内で、ミサを許容すること、或いは、国民のモダニズム受容を許すことは、聖地或いはイスラムの守護者としての同国のアイデンティティーの否定に繋がりかねない。このため、サウジはミサ解禁や、モダニズム受容には極めて慎重だ。他方、そのような使命を自国に課していない他の湾岸諸国は、アラブ首長国連邦にせよ、カタールにせよ、自国のアイデンティティーを損なうという深刻な問題がないため、ずっとオープンだ(現に、両国とも、教会設置を認めている)。」

●容認派
逆に、容認派の実情はどうか。バチカンの諸セミナーで、「イスラムとモダニズムが程よく融合している事例」として、よく登場する国はインドネシアだ。民主主義や、宗教的・文化的多元主義に立っていることから、カトリック関係者の間では評判が良い。同時に、イスラム教聖職者サイドでも、肯定的評価を聞く。再び、哲学者Eの話を紹介する。
「イスラムは本来多様だ。何人も解釈を押しつけることはしてはならない。よって、国家は、イスラムの教理に関し中立的で、誰もが(イスラムの解釈につき)自由に意見を述べることを(国が)保障することが望ましい。10世紀のバグダッドはまさにそのような処であった。その観点からは、現状では、インドネシアが良い線を行っている。」

●中間派
最後に、2派の間にある中間派について眺めてみよう。再び、ジャーナリストIの見方が参考になる。

「有り体に言えば、多数のイスラム諸国が、この40−50年間近代化プロセスに挫折した。挫折した結果生じた「空白」に宗教が入り込み、これらの国々では、軒並みイスラム色が強くなって来ている。
近代化プロセスへの挫折の原因としては、腐敗或いは成長戦略の失敗などが(直接的な原因として)屡々挙げられるが、より根本的には、イスラム諸国には、(近代国家を運営するという意味で)歴史の浅い国、国家の運営についてのノウハウが乏しい国が多かったために、国の経営がうまく行かなかった点を見落としてはなるまい。つまり、地中海を中心とするこれらの諸国は、日本や中国、或いはトルコといった、国家としての歴史・経験が豊富な国と同じようには論じられない。
このため、元々は世俗色の強かったアルジェリアやエジプトをはじめ、多くの国が、国民統合のために、世俗主義路線を次第に弱め、イスラムへの依存を強めて来ている。
すなわち、かれらは総じて、イスラム抜きには求心力を醸成し得ず、ナショナリズムとイスラムを結びつけて、イスラムに回帰せざるを得なかった。かれらは、目下、イスラム色を強め、モダニティー・西洋への拒否感を強めるプロセスの真只中にある。
巨視的に見れば、かかる過程は、国造りプロセスを進める上で避けて通ることの出来ない通過点なのだ。」

Iの言う通りだとすると、イスラム系の国としては多数派であるこの「中間派」の国々が、日本のようにモダニズム受容に前向きになることは当面は考え難いということになる。H神父の期待に反する言い様で悪いが。

4.まとめ

  本稿で特にお話ししたかった点は3点だ。
先ず第1点は、イスラムは(西欧)モダニズムによる「宗教いじめ」に苦慮していると言う点。尤も、モダニズムの「文化的攻勢」に苦慮しているのは、イスラムだけでない。カトリックも同じような苦労を味わっている。 つまり、第2点目となるが、政教分離、生命・家族倫理といった問題に限って言えば、イスラムはカトリックと「同志的立場」にあると言う点(第三者の目から見ればそう言えるということであり、そのことは当事者が互いに「同志と見なしている」ことを必ずしも意味しない。)
第3点は、今後の展望。今後イスラム系の諸国は、モダニズム受容を強める方向に進むであろうか?そのような国もあるが、多数派はむしろ距離を置いた付き合いを続けるだろう。
要するに、バチカン・西欧からイスラムを語ろうとすると、「モダニズムとの文明的緊張関係」についての論述を避けては通れない。実は、この点は、カトリックを語る場合でも、更には飛躍するようだが、現代日本を語る場合でも同じだ。その意味からは、「モダニズムとは何か?」という点についてもっときっちり取り組むべきであったが、本稿ではスキップした。ご容赦願いたい。

さて、本稿をもって5回にわたるシリーズ「バチカンに考える」を了する。長らくお付合い下さった方々に深謝申し上げたい。



◆執筆者プロフィール
上野 景文 (Ueno Kagefumi) 
 駐バチカン特命全権大使
1948年生まれ。1970年東京大学教養学部を卒業し、外務省へ。英ケンブリッジ大学修士課程修了(経済学)。スペイン公使、メルボルン総領事、駐グアテマラ大使、国際研修協力機構理事を経て、2006年より駐バチカン大使。文明思考家、アミニズム論考家としての顔を持つ異色の外交官。
著書に「現代日本文明論ー神を呑み込んだカミガミの物語」(第三企画)ほか。論文、エッセイ多数。

 

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