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「ボローニャ2000」
−ヨーロッパ文化都市を目指してー
ボローニャ在住 イタリア語通訳・翻訳者
青 山 愛
学問の街、食の街、赤の街、柱廊(ポルティコ)の街・・・。エミリア・ロマーニャ州の州都・ボ
ローニャは、昔からいろいろな言葉で修飾されてきた。イタリア北部と南部を結ぶ交通拠点という地
の利もあり、古くから商業・文化の交流が盛んであった。戦後は特に機械工業をはじめとした中小企
業が目覚ましく発展し、ヨーロッパ・レベルでも高い経済力を誇る。出生率が非常に低い反面、街は
国内のみならず、広く世界各国からボローニャ大学に集まる学生達で賑わう。また、イタリアの中で
最も映画・オペラ・演劇・各種コンサートにお金を使う市民である、という近年の調査結果によって
も裏付けられるように、ボローニャ市民(約38万人)の文化に対する関心は非常に高い。
"ボローニャ2000"はそんな中規模都市で生まれた、総合文化事業である。総予算約1700億リラ(約90
億円)、その事業内容は主に、合計2千時間以上に及ぶ各種イベント(300のコンサート、230の展覧
会、260のコンベンション、125のラボラトリー等)と、古い建造物の再利用による文化施設の充実
(旧農業取引市場のマルチ・メディア図書館化・旧タバコ工場の大学関係施設化など)から成ってい
る。まさに市を挙げた、一大事業である。
このボローニャ市の挑戦は、1995年11月20日、EUにより"2000年ヨーロッパ文化都市"に指定された時
から始まった。イタリアでは、1986年のフィレンツェに次ぎ、2番目である。名前こそ聞こえは良い
が、実際には立候補した全都市がこれに指定されるわけであり(2000年にはボローニャの他に8都市
が指定されている)、EUから出る補助金もわずかにすぎない(1億リラ=5百数十万円)。
つまり、この機会を市の活性化に充分に生かせるかどうかは、全てそれぞれの市にかかっていると言える。
1995年当時の市政府は、ボローニャでは伝統的な左翼政権であった。"ボローニャ2000"の育ての親と
も言える前文化担当評議員、ロベルト・グランディは、こう語っている ―("ボローニャ2000"の主
要目的は)ボローニャを芸術都市の国際的集団に仲間入りさせること;インノベーション、コミュニ
ケーション、文化的経営および生産に注目した企業発展の機会を提供すること。・・・企業発展及
び、農作物取引市場・音楽博物館・旧タバコ工場・・・の開放といった建築物再利用プログラムに関
して言うと、これらは特に若者のための新しい仕事の機会を生み出すことが目的であった。―
"政令によって文化都市になれるわけではない"とか、"堕落したVIP主義"といった批判を浴びながら
も、"ボローニャ2000"の準備は着々と進んでいく:1996年9月、"2000年ヨーロッパ文化都市"に指定
されている9都市により9つのテーマが選定され、ボローニャには<インフォーメーションとコミュニ
ケーション>が委ねられた。"ボローニャ2000"実行委員会が組織され、山のように寄せられたプロ
ジェクトのうち600が審査の上、最終的に選ばれた。市長をはじめ、実行委員会の代表者が世界各国
に飛び、"ボローニャ2000"を軸とした観光プロモーションを行った。一見、順風満帆に見えていたプ
ロジェクトだが、その実現を目前とした1999年6月末、衝撃が走る。― 市長選挙において決選投票
の末、僅差で約50年振りに右翼政権が誕生したのである。勝利を確信していた(一回目の投票では、
左翼候補が1位であった)左翼にとっては、まさか、の事態となってしまった。
―"ボローニャ2000"はどうなる?― 新政府の動きに注目が集まった。勿論、文化担当評議員として
プロジェクト誕生以来、その実現に力を注いできたロベルト・グランディは退任、加えて、やはり先
頭に立ってプロジェクトを進めてきた人物が次々と辞職し、ますます危機感が強まった。全ては新し
く文化担当評議員に任命されたマリーナ・デゼルティの手に委ねられた。中止か続行か?結論として
彼女は続行を決断する ― 最終的に失敗の責任は全て私に、功績の全ては私の前任者にいく危険性
があるのは、十分承知しています。―
市長選直後の7月に文化関係者と話す機会があった。彼らの反応の多くは、<成り行きを見守りたい
>、というものであったが、中には、<新政府による見直しでイベントの承認が取り消しになるので
は>、とか、<予算を削減されるのでは>、という危惧の声もあった。その後、"ボローニャ2000"広
報担当者にインタビューした際、政権の交代による影響についての質問をぶつけてみたところ、担当
者はきっぱりとこう答えた ― 政権の交代による影響は全くありません。"ボローニャ2000"は市政
府によってではなく、"ボローニャ2000"実行委員会によって運営されているのですから。―
幸運なことに、これは事実である。実行委員会のメンバーによる出資率を見てみると、"ボローニャ
2000"のイベント関係予算650億リラのうち、市の出資は120億リラにすぎず、州(中道・左翼政権)
が200億リラ、国(中道・左翼政権)が220億リラ、残りは商工会議所、ボローニャ大学、県によって
負担されている。従って、市の政権が代わっても、"ボローニャ2000"はあいかわらず左翼のものであ
ることに変わりない。だが、新政権に反発し、リーダー的人物や著名人が参加を辞退した結果とし
て、目玉と言われていた大プロジェクトの多くは自主的にキャンセルされることとなり、実現前から
プロジェクト自体が意気消沈してしまった感は、残念ながら否めない。
最後に、現在までの状況を簡単に見てみたい。8月4日に研究機関"プロメテイア"によって発表された
データ(2000年上半期)によると、"ボローニャ2000"は観光事業に良い影響を与えているようであ
る。2000年1月〜6月にボローニャを訪れた観光客は11.15%増、学校の団体旅行等を含めると、その
増加率は15〜20%に上る。観光客の内訳を見てみると、過去に比べ、芸術に興味を持ち、またボロー
ニャを訪れたい、と答えた若者と外国人の増加(1999年上半期に比べると、外国人観光客は8万4千
人、約27%増)が目立つ。実際、特に4月以降、市の中心にあるマッジョーレ広場で見かける観光客
と観光バスの数はびっくりするほど多かった。この傾向が、"ボローニャ2000"効果による一時的なも
のなのか、それともこのまま定着するのか、興味深いところである。
ボローニャに住んでいて私が気になるのは、海外ほど、国内、特に市民へのプロモーションが為され
ていないことと、市民としては最も関心のある文化施設の工事が遅れていることである。昨年、エミ
リア・ロマーニャ州内に本社を持ち、ボローニャ県内にも工場を持つ会社の方と話をしていて、私が
"ボローニャ2000"という言葉を口にした時、同席していたイタリア人達から、<それ、なんですか?
>と、怪訝そうに聞き返されたのを憶えている。現在はボローニャ市内に住んでいれば、あちらこち
らに"ボローニャ2000"の垂れ幕やポスターを見かけるので、みな漠然とは知っているものの、イベン
ト数が多いことも仇となって、全貌がわかりにくい。観光客は事前に、滞在中にあるイベントをホー
ムページ(www.bologna2000.it)などでチェックするのだろうが。"ボローニャ2000"関連イベントの
観客の、実に45%は外国人である、という結果が出ている。
文化施設の工事は、残念ながら遅れが目立ち、2000年内に完成する物はほんの僅かしかない。公共工
事が遅れるのはイタリアでは珍しいことではないが、今回は"2000年文化都市"という大目標があり、
市民の期待も高まっていただけに、<またか>という落胆の感も強い。近年中に完成することを祈る
ばかりである。
― 文化消費の中心地から文化生産都市へ、更には、観光客を魅きつける国際的芸術都市へ ―
ボローニャ2000"はこの変身を果たすための重要な足がかりではあるが、その効果を一時的なも
のではなく、継続的なものへと定着させるためには、今後並ならぬ努力が必要になるだろう。ボロー
ニャ市の挑戦は、まだ始まったばかりなのである。
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