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ITALY NEWS
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2000/06/01 


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時代を読んだイタリアの町づくり
‐その発想の転換から学ぶ


法政大学 工学部建築学科教授 陣内秀信



バブル崩壊後の日本では、都市に元気がなくなって、町づくりの方向性が見えにくくなっているように思える。中心市街地が空洞化するのと裏腹に、郊外の街道沿いにスーパー、大型ショップ、パチンコ屋がどんどん進出し、遠心的に都市が解体している。イタリア都市がこの30年歩んできたのとはちょうど正反対の現象が今の日本を支配していると言ってよい。

日本の都市の在り方を見直す上で、イタリアの町づくりのこの30年の歩みを振り返ってみるのは大きな意味をもつと思う。しかも、イタリアと日本は、「石の国」と「木の国」という文化の違いにもかかわらず、案外、共通性が多い。国土が狭い点、近代化・産業開発を急激になしとげ、その分、過疎と過密のアンバランスを生んだ点などにも典型的に表われている。それだけ日本の都市、地域の在り方を考えるのに、イタリアの経験は示唆に富んでいる。



第二次大戦で都市が大きな被害を受けたことでも、両国は似ていた。それからの復興、高度成長がまた共通している。ただし、全ての点でイタリアの方が5年、あるいは10年、ことが先に進行してきた。イタリアの奇跡の経済成長は50年代、60年代前半であり、日本のそれは少し遅れ60年代に起こった。 ミラノやナポリには旧市街の中に高層ビルが華やかに建設された。古い建物が壊され、近代化が進んだ。だが同時に、都市環境の破壊、文化的アイデンティティの喪失への反省も起こり、60年代を通じて、古いものと新しいものをどう関係させるか、真剣な議論が展開したのだ。その結果、城壁の内側の歴史的な地区は、チェントロ・ストリコ(centro storico) として保存の対象になった。

だが、都市は大きいことがいいことだという発想は、60年代を通じてまだ強かった。丹下健三氏のボローニャ計画も外側に副都心をつくって大掛かりに都市を発展させる計画であった。ミラノやトリノばかりか、平野部の多くの都市は、郊外にニュータウン、新興住宅地をどんどんつくり、内陸部の丘陵地帯や南部から移住する人達を労働者として受け入れたのだ。ちょうど日本の木曽路の妻篭などが過疎に悩んだのと同じように、魅力あるイタリアの丘の上の町は、過疎で活気を失っていた。

だが、ヨーロッパ全体と軌を一にして、60年代の末には、経済が低迷し、社会問題がどんどん発生する。市民の力も強まり、変革の時期を迎えつつあったのだ。それが68年に噴出した。以後しばらく社会の混乱は続いた。

だがイタリアのデザイン、建築、都市計画などの分野でも、こうした熱い文化状況の中で、活発な議論が交され、低成長の時代の生き方、むしろその中で、自分たちのアイデンティティを探り真にクリエイティブな方向へ進むための方法が求められたのである。<量的発展>から<質的発展>への転換が確実に起こった。それは73年のオイルショックを契機に決定的なものになった。

町づくりでそれを文字通り実現して見せたのが、ボローニャだった。それまで郊外に新たな庶民用の公営住宅群をつくっていた資金を、チェントロ・ストリコ内部の老朽化した古い住宅群の修復再生に振り向け、ローコスト庶民住宅として再度、住民に供給したのである。従来、歴史的な地区といえば、中心部はどんどん第三次産業化して住民が減り、また周辺部は高齢化してコミュニティが弱体化する現象を見せていた。その中で提起された、「保存」は市民の手に都市を取り戻すことだ、というボローニャ市が掲げるキャッチフレーズは、いかにも新鮮な響きをもって迎えられた。日本の文化庁が中心に進める町並み保存とはまったく異なり、都市計画の本流の、しかも住宅政策の大きな転換を生むものとして保存再生の大事業が実現したのだから、驚きだ。この事業は大きな成功を収め、イタリア全国に、そしてヨーロッパの全体に大きな影響を与えることになった。

こうして蘇ったチェントロ・ストリコは、車のない時代に人間の身体寸法でできていて、実は現代人にとっても、歩き、暮らすのに、実に心地がよい。人と人の交流も起こりやすい。近代化の価値観では郊外のニュータウンの方が格好よかったのが、完全に逆転し、歴史的なゾーンの魅力を人々が肌で感じるようになっていった。これが70年代の後半から80年代にかけてであった。

公共事業としてばかりか、民間のディベロッパーがこうした古い建物を修復再生する事業に積極的に取り組むようになった。十分に採算がとれるばかりか、重要な建設市場の仕事になっていったのだ。富裕者層が、お金をかけて古い建物を見事に修復再生(レスタウロ)し、格好よく住むという都市のライフスタイルが登場してきた。80年代以後、イタリアの建築家たちは、このレスタウロのデザインの分野でおおいに力を発揮し、修復再生された素敵な事例が各地に生まれた。

古い建物を再利用しながら、都市の外側へのスプロールを抑制していく。拡大膨張からコンパクト・シティへ都市発展のモデルを組み替える。こうした今、日本で一番求められていることを、この時期のボローニャは実現して見せたのだ。


ちょうど、これはイタリア経済の大きな転換と対応していたことが注目される。73年のオイルショックでダメージを受けたミラノートリノージェノヴァの大企業を中心とする重化学工業地帯にかわって、中北イタリアの底力をもった中小の都市が、伝統的な蓄積も生かしつつ、新たな産業を起して経済的な活気を生むようになったことは、よく知られる。こうしたゾーンは「第三のイタリア」とも呼ばれた。80年代に入る頃、ファッション、デザイン、そして食文化など、いかにもイタリアらしい生活や文化とつながった分野でイタリアは世界の市場で大活躍するようになったが、それは前述のような歴史的な都市の再評価と結びついていた。大企業を中心に都市がつくられるのではなく、中小の意欲をもった企業、商店主が環境を生かし、ローカルな文化のよさを十分に引きだしながら、経済活動を展開してきた。歴史的な建物、町並みといったフィジカルな環境のストックに加え、地元の人材、技術、ノウハウなど、ソフトなストックが発見され、再組織され、現代的に組み立てられて、他の国が真似できない人間の感性に見合ったモノを創り出すようになったと考えられる。最近のイタリアでは、経済的に元気な町は、都市環境として見ても魅力のある所が多い、と言っても過言ではない。魅力ある町でないと経済的な活気もつくりにくい。経済と文化は、もはや対立するものではない。

80年代以後、多くの都市がチェントロ・ストリコの広範囲で歩行者化を推し進め、成功している。防犯上も効果があり、安心して楽しく町を歩ける。本来、町に繰り出すのが好きなイタリア人の習性が蘇り、町は活気に溢れるようになった。そして店舗のディスプレーに磨きがかかり、次の段階では、公共側と商店街が組んで、ストリート・デザインを工夫する動きが各地で始まった。舗装、ストリート・ファーニチュア、各建物の開口部、看板、サイン、フラワーポット、照明のデザイン・コーディネートなどが進み、魅力を増している。色彩計画を考える都市もでてきた。個人の家の内部の修復再生から都市の外部空間、公共空間のデザイン・コーディネートへと、ステップがアップしたといえる。

イタリアではもはや、かつてのように「保存」とは言わなくなった。古いもののよさを守るのはあたりまえとなった。それを現代的に引き出し、今日的な機能を再度与えて魅力的に活用することが関心事になってきたのだ。一種の質の高い「開発」といった方がよい。

それと都市の周辺の田園のよさが再評価されている。大都市が人気がなくなり、自然と接しやすい中小の都市に住みたいと考える人達が増えている。



もちろん、これまで述べてきたことは、うまく事が進んでいる成功例を中心とした話ではある。南イタリアなど、まだまだ開発のプレッシャーが強い所もあるし、自治体の能力が欠けていて、町づくりがまったく進展しないような地域だって少なくない。だが、イタリアが都市や地域づくりで目指す方向は、明確に打ち出されている。その点で、どちらへ進むべきか右往左往している日本にとっての大きなヒントが、イタリアの経験の中に潜んでいるように思えるのだ。

日本でも、郊外にニュータウンや分譲住宅地をつくっても、もはや物件が売れない時代が来ている。少子化、高齢化の社会では、郊外に市街地を広げるのではなく、コンパクトで質の高い町をつくる方がよいに決まっている。都心の地価もひと頃に比べれば下がり、住宅の供給も可能になってきた。都心居住のリアリティがこのところ、急速に生まれている。となれば、イタリア的な都市の在り方と近いものが構想されてもおかしくない。日本の都市について真剣に考え直す時期が来ていると思う。

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JIBO編集部より

陣内先生の近著です。どうぞご高覧ください。

陣内秀信『イタリア---小さなまちの底力』 講談社 30年近くにわたる著者のフィールドワークの成果をもとに、イタリアの都市が何故、魅力的なのかを様々な視点からわかりやすく説く。特に小さなまちが歴史と風土をふまえ個性を発揮し、文化的にも輝きを発している様子を活写している。現在のイタリアの経済・文化の状況を理解するのにおおいに役立つ。 


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