2007年6月にミラノに赴任された東 博史総領事は、親しみやすいお人柄、明るい笑顔で、周囲の方々を巻き込み、積極的に日本とイタリアの様様な交流促進に尽力された。 行政関係との連携に加え、イタリアで活動する邦人の芸術家をも支援し「ジャパンブランド」発信の強化をすすめられた。2010年1月初旬に任期を終えて日本に帰国されるのを前に、総領事館を訪れ、お話をうかがった。
●プロフィールを教えてください
大阪府の出身です。1976年に京都大学法学部を卒業し、外務省に入省しました。最初の配属先は欧州との経済関係を担当する国際経済第一課でした。76年は日EC貿易摩擦が再燃した年です。
経団連の「土光ミッション」がヨーロッパを訪問しECとの自動車、鉄鋼、農産品などの経済摩擦が明確になり、その対処を担当しました。77年7月に外交官補としてフランスに留学しディジョン大学で国際法とフランス語を学びました。79年7月に日本に戻り、海外広報課勤務となり、海外への日本紹介および日本の外交政策の紹介を担当しました。 81年に領事第一課勤務で海外の在留邦人の福祉向上、医療、教育などを担当。また、在外選挙制度の創設などを自治省と交渉しました(在外選挙は10年前に実現しました。)
1983年6月に、アフリカ第一課勤務となり、一年後に首席事務官となりました。 日本へのアフリカ文化紹介やアフリカ飢餓救済事業を手がけとても思い出深い仕事となりました。当時、日本国内ではアフリカは知名度が低くほとんど認知されていませんでした。対アフリカ外交を推進するためには、「世論」の支持が必要ということで、「節食ランチ」で飢餓に苦しむアフリカの子供たちを支援したり、「アフリカ月間」「アフリカウィーク」を設定して「アフリカの音楽、芸術、文化」の紹介に勤めました、この間、黒柳徹子さんにユニセフ大使に就任いただいてニジェールに行って頂いたり、森繁久弥さん、いかりや長介さん、森進一さん、桑田佳祐さんなど「アフリカ支援」や「アフリカの文化」に造詣の深い方々の協力も得ました。その後駐伊日本大使となられた英 正道審議官(当時)とともに積極的に取り組みました。また、「アフリカに毛布を贈る運動」で全国から莫大な数の毛布が集まる等「アフリカを支援しよう」という「世論の盛り上がり」を実感することができました。
1986年7月にはじめての海外勤務となり、フランス大使館に一等書記官として赴任しました。外政班長としてフランスの外交政策のフォローを担当しました。88年7月から在象牙海岸大使館参事官(館のNo2)として、経済協力を中心に活動。その後90年9月に帰国し、国連政策課首席事務官となりました。ちょうど8月にイラクのクウエート侵攻があった直後です。国連での対イラク制裁決議への対応、国連PKOへの自衛隊派遣のための「PKO協力法」の作成や国会での審議の対応を担当しました。この法案成立後はカンボジアでのPKOの明石代表の活動を支援する準備をしました。92年8月に査察室長となり、在外公館の査察を行いました。1994年に欧亜局東欧課長となりました。ベルリンの壁が崩れて4年目、東欧の民主化、市場経済化が進んでいた時代で、わが国も各国の市場経済化促進支援を実施しました。東欧諸国を歴訪し、クラシック音楽にも親しむようになりました。紛争後のボスニア復興支援や、ここでもボスニアPKOの明石代表の支援も担当しました。
1996年1月に、在ウイーン国際機関日本政府代表部参事官に就任し、国連など国際機関を担当しました。毎週末にはオペラ座のオペラを鑑賞しオペラが好きになりました。この時期、指揮者の大野和士氏との知己も得ました。1998年2月から在イラン大使館参事官に就任し、その後公使に昇格。経済協力や情報収集などを行いました。ペルシャ文明についても勉強をすることができて楽しい思い出となっています。
2001年日本に戻り、私の故郷の大阪府に出向し、大阪府国際交流監となりました。大阪府の国際交流を担当し、当時の太田大阪府知事とミラノに来て、ロンバルディア州のフォルミゴーニ州知事との間で「大阪府とロンバルディア州との友好提携」を締結しました。また、この間、大阪府とドバイ市との友好提携も実現させました。
2003年在パキスタン大使館公使に就任。大使館のNo2として様々な外交活動を行いましたが、特に印象に残っているのは、カシミール地方で「パキスタン大地震」が発生した際 日本のNGOとともに被災者救援活動を実施したことです。 日本から大量の救援物資が送られてきたのですが、この物資の配布をパキスタン政府まかせにせず、「日本の顔が見える」形で実施したいと考え、当時の田中大使の指導のもと、カシミールの奥深い山岳地帯で道路が寸断され物資を陸路で配布できない地域に、自衛隊が派遣してくれたヘリコプターを活用して、空路緊急物資を運び、当時日本から来た50名ほどの民間人NGOにその救援物資を配布してもらい、日本からの救援物資を「日本人の手」で直接配布する一環体制を築き大使館がその司令塔の役割を果たしました。また日本から来られた医療団や救護隊も現地での「日本の顔」が見える支援に貢献されました。この方式は後に「パキスタン方式」と言われその後の緊急支援のモデルになったと聞いています。さらに、日本から送付された2000張りのテントで「ジャパン・キャンプ」を設営し、現地のNGOや、UNHCR、 IMO、UNICEF等の国際機関の協力も得て、日本のNGOの方々が活動して、山里から平地に逃げてきた人々を助けて、食糧や水の提供をしました。
日本の複数のNGOが協力して「ジャパン・キャンプ」を運営したのはこれが初めてのケースとなりました。これにより「オールジャパン」で「日本の顔の見える援助」が実現し、パキスタン政府からも高く評価されました。
その後、2006年6月駐ミラノ総領事に就任しました。
●3年半に及ぶミラノでの任期において特に力をいれられたことはどのようなことでしょうか。
私が赴任した2006年6月から2007年前半まで最初の1年間は日伊両国とも経済の回復期で好景気でした。日本企業もこの間に6社が北イタリアに進出してきました。みずほ銀行、三井住友銀行、三菱証券、島精機、トヨタミラノ販売、ヤクルト販売など。
ところが2007年秋から景気が後退してきて、特に2008年リーマンショック後景気が急激に落ち込みました。その結果、北イタリアの日本企業でも、日本人のトップが帰国した後、日本本社からの派遣はなく、イタリア人スタッフが責任者になるところもでてきました。日本・イタリア間の貿易も一進一退の状況でした。一方で、イタリアでも中国の活動が目覚しく、貿易・投資が着実に伸び、イタリアにおける存在感を増して来ました。
こういう中で、私としては伊で「日本の存在感」を増し、「日本の地位」を向上させ、経済面でも文化の面でも二国間関係を強化するため、言って見れば「ジャパンブランド」の発信を強化することが最大の「課題」と考えました。
このため、ミラノのJETROや日本商工会議所、日系企業、在留邦人で芸術家として活躍されている優れた方々などと連携し、「オールジャパン」で「ジャパンブランド」の発信を強化することに尽力しました。また、ミラノだけでなく、日本の地方自治体との連携を深めること、日本食、日本酒のPRや日本の製品(家具、革製品、モード、農産品等)の輸出促進を「ジャパンブランド」の発信に結び付けたいと思って取り組んできました。