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ITALY NEWS
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2009/12/28 



  イタリアの日本人
  GIAPPONESE IN ITALIA  


3年半の任期を終えて
日本に帰国されるにあたって


駐ミラノ日本国総領事
東 博史 氏 (Hiroshi AZUMA) 



2007年6月にミラノに赴任された東 博史総領事は、親しみやすいお人柄、明るい笑顔で、周囲の方々を巻き込み、積極的に日本とイタリアの様様な交流促進に尽力された。 行政関係との連携に加え、イタリアで活動する邦人の芸術家をも支援し「ジャパンブランド」発信の強化をすすめられた。2010年1月初旬に任期を終えて日本に帰国されるのを前に、総領事館を訪れ、お話をうかがった。

●プロフィールを教えてください
大阪府の出身です。1976年に京都大学法学部を卒業し、外務省に入省しました。最初の配属先は欧州との経済関係を担当する国際経済第一課でした。76年は日EC貿易摩擦が再燃した年です。
経団連の「土光ミッション」がヨーロッパを訪問しECとの自動車、鉄鋼、農産品などの経済摩擦が明確になり、その対処を担当しました。77年7月に外交官補としてフランスに留学しディジョン大学で国際法とフランス語を学びました。79年7月に日本に戻り、海外広報課勤務となり、海外への日本紹介および日本の外交政策の紹介を担当しました。 81年に領事第一課勤務で海外の在留邦人の福祉向上、医療、教育などを担当。また、在外選挙制度の創設などを自治省と交渉しました(在外選挙は10年前に実現しました。)

1983年6月に、アフリカ第一課勤務となり、一年後に首席事務官となりました。 日本へのアフリカ文化紹介やアフリカ飢餓救済事業を手がけとても思い出深い仕事となりました。当時、日本国内ではアフリカは知名度が低くほとんど認知されていませんでした。対アフリカ外交を推進するためには、「世論」の支持が必要ということで、「節食ランチ」で飢餓に苦しむアフリカの子供たちを支援したり、「アフリカ月間」「アフリカウィーク」を設定して「アフリカの音楽、芸術、文化」の紹介に勤めました、この間、黒柳徹子さんにユニセフ大使に就任いただいてニジェールに行って頂いたり、森繁久弥さん、いかりや長介さん、森進一さん、桑田佳祐さんなど「アフリカ支援」や「アフリカの文化」に造詣の深い方々の協力も得ました。その後駐伊日本大使となられた英 正道審議官(当時)とともに積極的に取り組みました。また、「アフリカに毛布を贈る運動」で全国から莫大な数の毛布が集まる等「アフリカを支援しよう」という「世論の盛り上がり」を実感することができました。

1986年7月にはじめての海外勤務となり、フランス大使館に一等書記官として赴任しました。外政班長としてフランスの外交政策のフォローを担当しました。88年7月から在象牙海岸大使館参事官(館のNo2)として、経済協力を中心に活動。その後90年9月に帰国し、国連政策課首席事務官となりました。ちょうど8月にイラクのクウエート侵攻があった直後です。国連での対イラク制裁決議への対応、国連PKOへの自衛隊派遣のための「PKO協力法」の作成や国会での審議の対応を担当しました。この法案成立後はカンボジアでのPKOの明石代表の活動を支援する準備をしました。92年8月に査察室長となり、在外公館の査察を行いました。1994年に欧亜局東欧課長となりました。ベルリンの壁が崩れて4年目、東欧の民主化、市場経済化が進んでいた時代で、わが国も各国の市場経済化促進支援を実施しました。東欧諸国を歴訪し、クラシック音楽にも親しむようになりました。紛争後のボスニア復興支援や、ここでもボスニアPKOの明石代表の支援も担当しました。

1996年1月に、在ウイーン国際機関日本政府代表部参事官に就任し、国連など国際機関を担当しました。毎週末にはオペラ座のオペラを鑑賞しオペラが好きになりました。この時期、指揮者の大野和士氏との知己も得ました。1998年2月から在イラン大使館参事官に就任し、その後公使に昇格。経済協力や情報収集などを行いました。ペルシャ文明についても勉強をすることができて楽しい思い出となっています。
2001年日本に戻り、私の故郷の大阪府に出向し、大阪府国際交流監となりました。大阪府の国際交流を担当し、当時の太田大阪府知事とミラノに来て、ロンバルディア州のフォルミゴーニ州知事との間で「大阪府とロンバルディア州との友好提携」を締結しました。また、この間、大阪府とドバイ市との友好提携も実現させました。

2003年在パキスタン大使館公使に就任。大使館のNo2として様々な外交活動を行いましたが、特に印象に残っているのは、カシミール地方で「パキスタン大地震」が発生した際 日本のNGOとともに被災者救援活動を実施したことです。 日本から大量の救援物資が送られてきたのですが、この物資の配布をパキスタン政府まかせにせず、「日本の顔が見える」形で実施したいと考え、当時の田中大使の指導のもと、カシミールの奥深い山岳地帯で道路が寸断され物資を陸路で配布できない地域に、自衛隊が派遣してくれたヘリコプターを活用して、空路緊急物資を運び、当時日本から来た50名ほどの民間人NGOにその救援物資を配布してもらい、日本からの救援物資を「日本人の手」で直接配布する一環体制を築き大使館がその司令塔の役割を果たしました。また日本から来られた医療団や救護隊も現地での「日本の顔」が見える支援に貢献されました。この方式は後に「パキスタン方式」と言われその後の緊急支援のモデルになったと聞いています。さらに、日本から送付された2000張りのテントで「ジャパン・キャンプ」を設営し、現地のNGOや、UNHCR、 IMO、UNICEF等の国際機関の協力も得て、日本のNGOの方々が活動して、山里から平地に逃げてきた人々を助けて、食糧や水の提供をしました。
日本の複数のNGOが協力して「ジャパン・キャンプ」を運営したのはこれが初めてのケースとなりました。これにより「オールジャパン」で「日本の顔の見える援助」が実現し、パキスタン政府からも高く評価されました。

その後、2006年6月駐ミラノ総領事に就任しました。

●3年半に及ぶミラノでの任期において特に力をいれられたことはどのようなことでしょうか。
私が赴任した2006年6月から2007年前半まで最初の1年間は日伊両国とも経済の回復期で好景気でした。日本企業もこの間に6社が北イタリアに進出してきました。みずほ銀行、三井住友銀行、三菱証券、島精機、トヨタミラノ販売、ヤクルト販売など。 ところが2007年秋から景気が後退してきて、特に2008年リーマンショック後景気が急激に落ち込みました。その結果、北イタリアの日本企業でも、日本人のトップが帰国した後、日本本社からの派遣はなく、イタリア人スタッフが責任者になるところもでてきました。日本・イタリア間の貿易も一進一退の状況でした。一方で、イタリアでも中国の活動が目覚しく、貿易・投資が着実に伸び、イタリアにおける存在感を増して来ました。

こういう中で、私としては伊で「日本の存在感」を増し、「日本の地位」を向上させ、経済面でも文化の面でも二国間関係を強化するため、言って見れば「ジャパンブランド」の発信を強化することが最大の「課題」と考えました。  

このため、ミラノのJETROや日本商工会議所、日系企業、在留邦人で芸術家として活躍されている優れた方々などと連携し、「オールジャパン」で「ジャパンブランド」の発信を強化することに尽力しました。また、ミラノだけでなく、日本の地方自治体との連携を深めること、日本食、日本酒のPRや日本の製品(家具、革製品、モード、農産品等)の輸出促進を「ジャパンブランド」の発信に結び付けたいと思って取り組んできました。

●具体的にはどのようなことでしょうか ミラノ市との絆も大きく強化されたようですね
毎年4月に開催される「ミラノサローネ」(世界最大級の国際家具見本市)については、2007年4月の「サローネ」の際には、その5年位前から日本の家具業界(国際家具産業振興会)が、「日本スタンド」として正式出展を望みながら実現できていませんでした。そこで、経済産業省の審議官、ジェトロミラノ所長とともに、サローネの会長に直訴して、2008年のサローネに「日本展」のスペース確保をお願いしました。

しかし、当時は400社もウエイティングがありスペースがないとのこと。幸運にも、当時のサローネ会長が日本ファンで特別に日本のウエイティング順位をNO1にしてくれました。同会長が2007年12月の総領事館主催の天皇誕生日レセプションに出席された際、2008年4月のサローネで日本のスペース確保に見通しがついた旨述べておられました。この間、甘利経済産業大臣もローマで担当大臣に「日本展」の実現をお願いされ、同大臣よりミラノのモラッティ市長にも働きかけられた結果、2008年4月に日本家具業界として日本スタンドの「日本展」の初出展がかなうことになりました。そこで、2008年4月のサローネの際には、甘利大臣もミラノを訪問されました。
BIT(世界旅行博)日本ブースでミラノのモラッティ市長と

この機会を捉え、総領事公邸にてレセプションを開催し、伊財界人、経済人、ミラノ市、ロンバルディア州の要人もレセプションにお招きし、公邸にてモラッティ・ミラノ市長と甘利大臣との会談も実現しました。

ちょうど、同レセプションの直前の3月31日に、モラッティ市長が熱心に誘致活動を展開していた「2015年EXPO」の「ミラノ開催」が決まっていたということもあり、甘利大臣からは、ミラノサローネでの「日本展」開催の実現に対するモラッティ市長の協力に謝意を表すると共に、「2015年ミラノ万博」開催に祝意を表したところ、モラッティ市長も、愛知―上海―ミラノと万博開催地の関係を重視していて、「ミラノEXPO2015 」でも日本企業の協力を得たいということで、日本との関係、特に日本とミラノの関係を重視し、強化したいとの意向を強調され両国間関係強化の雰囲気が大いに盛り上がりました。

その後、「2015年ミラノ万博」成功にむけての準備の一環として、「2009年」から、ミラノ市が国際文化都市であることを示すためのキャンペーンを開始することとなり、最初の「2009年」を「日本年」としてミラノで集中的に「日本文化紹介事業」を実施したいという申し出がモラッティ市長からありました。もちろん、私からは「大歓迎です、全面的に協力します」と申しあげました。

●「ミラノにおける日本文化年2009」についてはどのような感想をお持ちですか
実際、2009年は「ミラノにおける日本文化年2009」として記念すべき1年間になりました。
2月には日本の兜や鎧を中心に王宮で展示した「侍展」、4月にはモネが影響を受けた日本の絵画について紹介し浮世絵等も展示した「モネと日本展」、9月には「マダムバタフライ、記憶のファイル展」が実施され、12月8日からは「日本年」の最後の行事となる「桃山江戸時代の日本の重要美術展」が開催中です。

東京国立博物館、京都国立博物館、大阪市立美術館等「日本」を代表する博物館の国宝級、重要文化財級の美術品が展示されています。さらに、音楽の分野でも、ここ数年来毎年秋に行われている「ミラノートリノ国際音楽祭MITO」および、現代音楽を紹介する「ミラノムージカ」のテーマ国も2009年は「日本」となり、「雅楽」、「狂言」「和太鼓」、「日本の現代音楽紹介」の他、大規模な日本文化行事が開催され、大成功を収めました。
一方、本年秋には、日本で「イタリアの秋」という大規模な経済文化行事が実施され、「イタリアの秋」の目玉行事としてミラノ「スカラ座」の日本引越し公演も行われ、天皇皇后両陛下がナポリターノ大統領と鑑賞、好評を博しました。
「桃山江戸時代の日本の重要美術展」記者会見

今年は「ミラノにおける日本文化年」という事で嬉しい反面、多少心配もありました。というのも「雅楽」等伊人になじみがなく、リズムもゆったりとしていて音調も違う音楽を理解してもらえるだろうかと。ところが驚いたことに、広い会場で開かれた雅楽のコンサートにも多数の伊人観客が押し寄せ、高い評価をして頂きました。「楽器をそばで見てみたい」、「どういう風に音が鳴るのか」など、興味津々でした。「能」も「狂言」も4回行われましたが多くの人が集まり熱心に聴き、ミラノの人の日本文化への関心の高さが示されました。観客は90%がイタリア人です。日本文化への需要の高さ、イタリア人、ミラノの人の日本文化に対する強い関心、理解の深さに感動しました。「日本文化年」の開催によって対日関心が確実に高まっていくのを実感しました。

●「オールジャパン」での「ジャパンブランド」の発信はうまくいきましたか?
この間、経済面でも、これまでイタリアから日本への輸入が中心であつた家具、靴など革製品等を、日本から伊を経由して世界に輸出しようとする試みが始まりました。先ほど申し上げたミラノ家具サローネに加えてMICAM(靴の国際見本市)にも2008年から「日本スタンド」が出展するようになりました。また、イタリア最大の国際観光見本市BITにも2008年2月から6年ぶりに「日本スタンド」を出展しました。これはローマの日本大使館の管轄行事ですが、開催地がミラノということで総領事館でもサポートをしました。
この「日本スタンド」には大変な人が押し寄せました。6年前の出展の際には、「閑古鳥」だったと以前も参加した関係者が言っていましたが、日本への関心が格段に強まっていることを実感しました。同時に、この間、総領事公邸を使って、BIT関係のプロモーション(日本観光についての記者会見、日本食の提供を行いました。) またこれ以外にも公邸を活用して、「日本酒の会」、和歌山県知事の観光物産プロモーション、金沢の老舗「能作」の漆器展なども開催してきました。(これは12月開催の「重要美術展」で国宝の漆器が展示されることにも連動しています)。

「オールジャパン」で「ジャパンブランド」の発信を強化するため、日本の「地方自治体」との連携も大切にし、地方自治体関連の経済、文化行事については、姉妹都市関係等を活用して個別の行事に「意義付け」をして当地の地方公共団体との連携を図りました。大阪市とミラノ市は姉妹都市関係にあります。2001年に姉妹都市締結20年をむかえ、毎年代表団がきています。大阪府とロンバルディア州も先ほど申し上げたように友好提携を2002年7月に結んでいます。2006年秋には当時の関市長や市議会代表が「大阪プロモーション」を行う等ミラノ市のと交流を行いました。

こういう中で、京都の「和装学園」からミラノで「きものショー」を開催したいとの申し出があった際、この学園の出身が大阪であったことから、このショーを単発の一学園のショーとしてではなく、大阪とミラノの姉妹都市交流事業の一環と位置付け、大阪市、大阪府、ミラノ市、ロンバルディア州にも働きかけを行い、それぞれの後援を頂くとともにミラノ市、ロンバルディア州の幹部の出席も得て姉妹都市交流の文化活動の一環として実現することができました。また、大阪市にある「相愛大学」の声楽部門がミラノの「ベルディ音楽院」との交流提携をしていたこともあり、同大学のオーケストラ100名が尾高高明氏の指揮のもとベルディ音楽院でコンサートを開催した際にもこのコンサートを大阪とミラノの姉妹都市交流の事業として実施しました。

●各地に熱心な日本文化協会があるときいていますが
北イタリア各地には地元のイタリア人が主体となった熱心な文化協会があり驚くほど熱心に活動をしています。特にすごいのがヴェネト州パドヴァ市郊外のアバノ・テルメにあるHIGANという名前の協会です。2008年3月にHIGANという大イベントを立派な会館を使って開催し、多彩な日本文化行事を丸1ケ月行いました。盆栽展のほか日本家屋の一部も再現されており、一般市民も大勢訪れ、大変な人気で、1ケ月間続きました。期間中、毎週週末には、「和製オペラ」、「和太鼓」、「琴のコンサート」など比較的大規模な文化行事が実施されました。

常設ブースがあって、面白いのは、参加者が気軽に参加して「日本を知る」ことのできる複数のコースが設けられていることです。「初級コース」は緑茶を飲む、日本酒を飲む、すしを食べるコース。「中級コース」は、生け花、お茶、書道を試すコース。そして「上級コース」は大講堂でのセミナー。そのひとつで「床の間」というテーマで3名のヴェネツィア大学教授たちが講演をしました。この「床の間」セミナーは内容が深く、大変感銘を受けました。講師は三名で一人は盆栽や庭園の専門家。盆栽の説明や樹形などについて話しました。
次は「書」の専門家で漢字の由来や成り立ち、ひらがなの話など。総領事館公邸におけるヴィットリオ・ヴォルピ氏の叙勲式で
最後に、日本美術の専門家が、「床の間」について、 どこにどのような「盆栽」をおくのか、 どの「書」を合わせればいいのか、一つの空間をこれらの二つを合わせることで創り上げることができる、「空間の美」が重要だという話をしました。2−3時間のこのセミナーを200人以上の人が熱心に聞いていました。質問が実に沢山出て、それを講師たちが丁寧に答えていました。素晴らしいと思いました。表面的な日本へのエキゾチズムを超えて日本文化の真髄の深いものに触れたいという熱意を感じました。

特に、このセミナーの後「盆栽と日本庭園の専門家」の方から、本人が会場の外にしつらえた「石庭」のつくり方や、「水の流れる日本庭園」の特色を伺いました。その際、同人が「私が日本美術を勉強して良かったことは、空間の「VUOTO(空っぽ)」がこれまでは「恐怖」の対象だったのが、日本美術や文化を勉強して、「空」の中にこそ、「美」があることがわかって、それが一番嬉しかった」と言っていました。確かに、西欧ではシスティーナ礼拝堂を始め、天井も壁も床も何もかもを飾り何かも飾り覆いつくすことが多いと気づきました。「何もないことは、「ブラックホール」のように感じて「怖かった」が「日本の美術」は「空間の美しさ」にあることがわかった」 こう語るのを聞いて、強い感銘を受けました。ここまで日本文化の真髄を把握し、表現できることは素晴らしいと思いました。

●日本文化はどのように受け入れられているのでしょうか
空手の話をしましょう。イタリアで空手人口は30万人いて大変普及しています。ピエモンテ州のモンフェラートの町で、少年少女の全国大会があり、5歳から14歳の総勢2000人が参加しました。可愛らしいことに、「イチ・ニ・サン」と日本語で掛け声をかけています。指導者のイタリア人は40年間空手を実践しているということですが、私と話をしている時は直立不動で昔の古武士のような印象を受けました。イタリア人ですが明治の気骨のある日本男性のような雰囲気を持っていました。感動したのは、空手を単なるスポーツととらえず、挨拶、尊敬、礼儀などまるで日本古来の武士のようで、いわゆる空手5訓を実践しこれに基づいて生活されている方ですごいなと思いました。技とか型を追っているのではなく、空手の精神を自分自身の生活の基本としています。日本の伝統文化のいい面を尊敬して日本が大好き。こういう人は日本にとって本当の友人であり、金銭、損得のからむ経済的なつながりではなく心の底から日本を尊敬する本当の友人であり、こういう人こそ大切にしたいと思いました。経済交流も大切ですが、イタリアで日本文化を深めていただている方々を評価しサポートする活動に尽力したいと強く感じました。

茶の湯では裏千家のローマ支部の野尻命子さんがミラノでも活動されていますが、野尻さんのお話も興味深いものでした。日本だとお茶を習うのは女性の花嫁修業的なニュアンスがあり身のこなし方、たしなみ、作法、段取りなどを一通り習っておくという感じが強いと思います。でもこちらでは最初に教えることは、肩の力を抜いて「丹田」に力をこめること。息の仕方、姿勢、そして自分の心を開いて相手を受け入れるおもてなしの心を教えるとのことです。余分な力を抜いて、タンデンに息を整えて自分を開いて相手を迎え入れること。 このように日本の作法については背景を教えることが大変重要だと思いました。イタリアの人は、形式についてもその作法よりは背景を知りたがります。なぜそのような形をとるのか、人々への対応の仕方に関心があるのです。(その点、ある文化行事でのお茶会でも参加者から質問がでましたが、日本からきた師範の方は「昔からこのようにやっていますから」という説明だけで的確な返事ができず、残念に感じました。)

その他、トリノをはじめボローニャ、ラベェンナ、イモラ、ブレーシャ等各地に様々な日本文化関連の協会があります。ヴェネツィアも東洋大学があり日本語や日本文化の先生たちも多く、熱心です。近年ではヴァッレダオスタ州が5年前から「ジャパン・デスク」を設けて、50年前に柔道家として来伊した方の息子さんが担当しています。ヴァッレダオスタは、トリノオリンピック開催の前年、クールマユールに荒川静香選手など日本代表選手が一ヶ月合宿したことに始まり、柔道、スケート、ラグビー などの日本代表チームが合宿、イタリアチームと交流をしています。また、ヴァレダオスタから日本への団体旅行もはじまっています。

さらに、私が心がけたのは、芸術分野で活躍している在留邦人の方が多いので、その方々の支援になればと展覧会やコンサートなどになるべく出席し、スポンサーさがしなども支援してきました。この12月には、北イタリアのマントヴァ歌劇場に吉田裕史氏が音楽監督として就任されました。今後も「日本ブランド」発信に貢献して下さるものと期待しています。

●総領事館を訪れる日本の方へ何かメッセージは?
昨年夏以降、日本の旅行客が減りましたが、ここにきて少し盛り返しています。総領事館に見えるのは、なんらかのトラブルにあった方々です。パスポートを失くしたり、金を盗まれたなどなど。日本とイタリアは治安状況が違うことに留意して事故やスリにあわないようくれぐれも注意していただきたいと思います。その上で素晴らしいイタリアの文化に触れていただければと思います。

●イタリアでの生活についてのご感想は
ミラノに来る前は、イタリアはいいかげんで非効率な国だろうと思っていました。ところが実際に来てみると、少なくともミラノの人々は約束の時間を守るしビジネスライクで効率もそれほど悪くありません。

暮らしは抜群にいいと思います。食事もいいし、音楽、美術展など文化面は素晴らしいですね。もちろん、日本と比べると公共サービスの質、店のサービスの対応はよくはありません。また、水まわりの修理、電機、TVアンテナ調整などはなかなかできないなど、その面の不便はありますが、おおらかにかまえるしかありませんね。

私はウイーン在勤時代にオペラの魅力にひきつけられ、オペラが大好きとなりました。今回の滞在中もしょっちゅう見に行きました。クラシックコンサートにも頻繁に通いました。3年半はあっという間でした。
とても幸運ないい時期に滞在できたと思い心から感謝しています。

(聞き手:JIBO編集部 大島悦子)

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