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ITALY NEWS
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2007/9/25 



  イタリアの日本人
  GIAPPONESE IN ITALIA  


フォトグラファー


西川 よしえ 
Ms. Nishikawa Yoshie



1959年札幌生まれ。札幌大谷大学美術学科卒業後、1982年渡米,サンフランシスコアカデミーオブアートカレッジにて、ファインアートフォトグラフィーを学ぶ。
1984年より,フリーランスフォトグラファーとして独立。東京を拠点に、ロンドン、ニューヨーク、ミラノで活動。1996年、ベースをミラノへと移動。

●写真との出会いはどのように始まったのですか?
私は子供のころから写真やカメラが好きな「写真小僧」ではありませんでした。絵を描くのと同じに、ツールとしてカメラを使って表現し自分の作品をつくっていく、それが私と写真やカメラとの関係です。
子供のころから絵を描いたり何かを創ることが好きでした。札幌の美術大学では油絵、水彩、デッサンなど少しずつ何でも勉強しました。授業の一環で写真のクラスもあり、カメラにも触れ、現像の仕方もそこで初めて習いました。短期間のそのクラスは、興味深い印象を自分に残しました。卒業制作では、カメラを使って作品を制作しました。とはいえ、卒業後は広告デザインの方向に行くと思っていて、 卒業後、デザイン会社にグラフィックデザイナーとして勤めました。ただ半年もすると、机の前に座ってデザインをする作業は自分には合わないことに気付きました。

丁度その時、写真スタジオのアシスタントの仕事の引き合いがあったのでやってみようと思いました。商業写真スタジオで1年間、仕事をすることで、現像、プリント、ライティング方法など基本的なことを一通り、実践で習得しました。
現場でものをつくる仕事は楽しく自分に向いていると思いました。

写真下左:tulip、写真下右:la rossa  

●サンフランシスコの経験をきかせてください
1年間、写真スタジオで働くことにより大体のことが分かってきましたが、同時にそこでの商業写真が、自分の撮りたいものではないことも見えてきました。果たして自分の撮りたいものはなんなのか、、、、。退職し、中学生のときから行きたかったアメリカへ。片道切符とわずかの滞在費を用意してサンフランシスコに渡りました。漠然ではありましたが、大きな夢だけを信じてです。
サンフランシスコには想像以上の夢の世界がありました。自分好きなもの、感動する事を写真に撮ってみたり、絵を描いてみたり、毎日ギャラリーやミュージアムを訪れては惹かれるものを見て回りました。学生の頃美術書でみていたものが目の前にあるそんな環境にいることをありがたく思いました。気に入ったギャラリーを見つけてしばらく通ううちに、そこは美術大学の一部だと言う事が判明。ナイトライティングのコースの 生徒の写真展が開かれていました。自分が惹かれる写真のそれらは、実際にどう撮れるのかわからない謎がひそんだものでした。商業写真にはなかったアートとしての写真の世界との出会いがそこにあったのです。その学校に早速受講届けを提出、6ヶ月2期受講しました。 大学の卒業制作の資料等をみせ、ガイダンスでアピールして、一番上のクラスへの受講を特別許してもらいました。
自分の一生のうちでも、大切な宝となるものを得たすばらしい時間を過ごしました。

写真下左:Io Donna、写真下右:Still Life   

●日本でのお仕事はどのような内容でしたか
サンフランシスコから戻り、自分の作品集を手に好きな写真家のアシスタントになろうと上京したものの、その当時女の子の助手の口はありませんでした。たまたま、ブックを見た出版社の人から、ロンドンに行って写真をとってきてくれないかという話を依頼され、6ケ月間、ロンドンへ。1984年から東京をベースにフリーランスの写真家として仕事を始めました。
その当時何年か、1年に1回のお休みを必ずニューヨークで過ごしていました。行く度に、ここで、ファトグラファーとして生活できればいいなあと思っていましたが、東京で、少しずつ、クライアントも増え仕事も忙しく楽しくなってきたところでしたので、その思いは実行される事はありませんでした。音楽関係、レコードのジャケットやポスターなどの仕事から、徐々に、ファッションの方へ。仕事はどんどんくるので、どんどんしました。クライアントから依頼された仕事をすることが100%で、いわゆるファインアート、自分の創作活動はまったく行っていませんでした。仕事に恵まれ楽しく充実した時間でしたが、だんだんとこのまま続けていいのかと疑問をいだくように思うようになりました。

写真下左:Niel's、写真下右:San Lorenzo  

●ミラノにいらしたきっかけは?
1994年、36歳のとき、このスピードでこの流れにのって、この仕事の延長線上を進んでいっていいのかという戸惑いは頂点に達しました。日本以外でもフォトグラファーとしてやっていけるか、、、、、、。夢だけ信じて一歩も3歩も前に進んでいた「物怖じしない自分」だったのに、自分がサンフランシスコに行ったときに持っていた「気概」を失っていたような感じがしたのです。

日本社会の中にいると、暗黙のうちの社会的ルールがいろいろあって(自分の身を守る為に必要な事)、それに無意識にあわせているようなかんじがいつも自分にとって居心地が悪く、今ここから、出ないと出る時期はない。と、思ったのでした。
当時は、経済力もあったので、東京の拠点も残して、ミラノと、2拠点を行ったりきたりしました。2年間の試験期間を経てなんとかやっていけると思ったので、東京をかたづけ、ミラノにベースを移しました。1996年のことです。

ミラノでは、まず、主だった雑誌社にブックを持ってプレゼンにいきましたが、ダメでした。写真だからイタリア語ができなくてもいいかと思っていのですがこれは大間違いでした。仕事の説明、仕事の交渉、仕事のオーガナイズはイタリア語ができなくては話にならないこともわかりました。

写真下左:Lapislazzuli、写真下右:studio mamo  

●ミラノに来て「運命的な仕事」にめぐりあったようですが
私にとってミラノで一番最初の仕事は、大変思いで深い大きな仕事となりました。
1998年のことです。バラの花をテーマとした写真の展覧会をミラノで初めてしました。たまたまそれをみたジャーナリストが私の作品を覚えていてくれて、その友人のアートディレクターがフォトグラファーを探しているときに、私のことを紹介してくれたのです。アートディレクターから連絡があって作品を送ると翌日にはすでにミーティング、クライアントからの了解も得て話はスピーディに決まりました。なんと、イタリアトップランクの 照明器具メーカーであるフォンターナ・アルテFontana Arte社の仕事でした。
驚いたのは、スチール・ライフ(静物画)商業写真の経験の無い、日本人の私に大事な製品カタログ1冊の撮影を私に全面的に任せるというのです。日本だったら考えられないことです。自分にとって記念すべきスチールライフデビュー作品となりました。

写真:fontana arte  

その写真撮影のために、ミラノのSuper Studio というスタジオを3週間、貸しきってくれたのです。スタジオ経費を考えただけでも、責任の重さに震えてしまうほどです。最高の環境を用意しましたので、撮り方も白紙、自由に写真を撮って、1冊創ってくださいというのです。こういうクライアントにめぐりあえるということは大変なことです。スタジオ利用時間は朝9時から午後6時まで。自分の中でこれが最高だと思える写真を創ることにすべてをかけた3週間でした。あまり熱中したためか、2週間たったときに、朝ベッドから起きあがれなくなりました。エネルギーをすべて使いきってしまったかのようでした。1日休むと幸い回復し、再び仕事を続け、撮影を完成させました。自分の中のリミットがわからず、力のすべてを出し切ってしまったためにどうしようもなかったのでしょう。当時はデジタルではなくフィルムの写真でしたので、あとで修正という発想はなく、完璧に近い写真を撮ることしか考えられませんでした。信じてもらって与えられた仕事。結果を返したい。
大変な緊張感の中ですべてを集中して取り組んだ仕事です。

この仕事を通して、モノを撮ること、その材質、質感をどう表現するかということに徹底的にむきあいました。 ものはライティングによってまったく違う表情をします。写真家が一番やりたいことをやりたい方法でやらしてくれたクライアントやアートディレクターのいる国でこの仕事ができたことは大変な幸せだと思います。

●現在のお仕事はいかがですか。
そのあとは、これを1冊仕上げたことで、見た人から仕事の依頼や問い合わせがボツボツト少しずつくるようになりました。仕事の広がり方は、ゆっくりゆっくりです。こういう時間の流れの中で仕事ができる事もまた恵まれていると言えましょう。
その後、フィルムの時代から2000年に入ってデジタルの時代になって流れも変わってきましたが。デジタルの普及によって、フォトグラファーに頼らず、ライティングをきちんとしなくても、デジタルだとある程度写るようになってしまいます。お金をかけないでそれをすませる、フォトグラファー苦難の時代ともいえましょう。幸い最近また流れは変わって来ています。

写真:studio nishikawa  

現在は、イタリアのデザインやファッションの会社の広告、カタログ製作などを中心に 日本の雑誌社からの依頼 にも応対しています。こちらはイタリアでの撮影ページの企画製作全般を受ける場合が多くなっています。すなわち、撮影のロケーション、モデルのオーディション、ヘアメークやスタイリング等スタッフの手配、コーディネート一式など。この何年かは、白紙でもらって好きなようにお任せということが多いです。

これから新たにはじめたいジャンルは、一般の方のポートレイト撮影です。今でポートレイトというのは著名人、俳優などに限られていました。一般の方は特別な記念日などに街の写真館にいって記念撮影をしてもらうのがせいぜいだったかと思います。わたくしがやりたいのは、記念日の一般的な記念撮影ではなくて、その方と100%むかいあって、残しておきたい写真を、一つの作品を創り上るということなのです。たとえば、最近ですが出産前の女性のヌードというのも撮りました。はじめての子供を生む37歳の女性です。このお腹のある自分の写真を撮っておきたい、残る写真を一枚をほしいというのです。私自身も撮っていて大変気持ちが高揚しました。

●イタリアで仕事をして感じることは?
イタリアでは、創ることに対して、みえない部分にかけてくれる。創ることに対して、可能性を持たせてくれる。全てがという事ではありませんが、先を見る力が備わっているのではないでしょうか。照明器具、ジュエリーなど、プレゼン段階では、自分のブックにはそれらのオブジェの写真が入っていなくとも、違う写真をみて、予想をされるというか。経験を重要視するのは最も当然ですが、その先を読む、可能性に期待する、その余裕の部分が創るうえで大切なのだと思います。
日常、ままならぬ事の繰り返しですが、時としてミラクルも起きる!!が、この国の魅力でしょうか。



主要クライアント、Ferrari, Fontana Arte, Tecno Derta, Xenia Gioielli, Remida Gioielli San Lorenzo Argenteria, Cristina rubinetteria, Sony, Soso, I+I design, Harrods, Loro Piana, Charles Jourdan, Waner Bross, など。その他、出版社では、Rizzori(Italy,USA) , Conde Nast(Italy,England), RCS Periodici (Italy), 講談社、集英社、小学館など。
写真集に、Fascination(東京1994年),Cathrine Walker(NY 1997年)、Gli Oggetti di FontanaArte(Milan1999年)、Salvadanai di San Lorenzo(Milan 2001年)、Soso(Milan 2002年)、12Monili d'argento(Milan 2003年)、Remida (Monza 2006年)等があげられる。
イタリア、日本での個展は、"Fascination" 1984 Britz Gallery,東京。"La mia Rossa" 1997 Gallery Salud, sapporo-Austraria Gallery,Karuizawa-Gallery Iku, Nagoya. 1998 Galleria Piuma, Milan.  "表裏一体 Natura morta?" 2006 Galleria Aliprandi Contemporanea,Milan.
"Colore" 2006 Teatro Binario 7 Monzaあげられる。グループ展,多数。

サイト:www.yoshienishikawa.com


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