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ITALY NEWS
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2003/11/01 



  イタリアの日本人
  GIAPPONESE IN ITALIA  

農守義文氏 
(Yoshifumi Noumori) 


伊藤忠イタリー会社 社長

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JIBO:プロフィールを教えてください

神戸市の生まれです。滋賀大学経済学部を卒業して、1972年、伊藤忠大阪本社に入社しました。配属は化合繊、ポリエステルなどの原料貿易部門です。入社して1年後、73年から75年までの2年間、イランのテヘランにペルシャ語研修生として派遣されました。2年間テヘラン大学に入学して外国人用講座に通いました。ご存知のように、中近東といってもイランとアフガニスタンではペルシャ語、その他の地域ではアラビア語を使用しています。ペルシャ語とアラビア語は文字は似ていますが、文法などは異なります。2年間の研修で、日常困らない程度の会話とペルシャ語の基本的な読み書きを習得しました。新聞の見出しなどは読めるようになりましたし、テレビも英語よりはよくわかるようになりました。

当時、イランは王制で石油産出国として大変重要な位置づけにありましたので、伊藤忠だけでなく、三菱、三井、丸紅さんなど大手商社はいずれも研修生をおくり、活発な投資を行っていました。

イランにおいて繊維では、その当時、弊社のもうけの中心でした。当初はチャドールをつくる布を日本から輸出していましたが、その後は、地場で織物を生産できるようになったので、原料輸出が中心となりました。また、絹のカーペットであれば100万円程度しましたが、アクリル機械編みのカーペットや毛布を国内で生産するようになっていたので、その原料も大いに売りました。

その頃、イランの弊社事務所には、日本から二人駐在の体制でした。私は研修が終わると、日本に戻りました。その後、当然イランに派遣されるものと思っていたのですが、ちょうど78年にイラン革命が勃発してしまい、テヘラン事務所は一人体制になり私の駐在は一時延期に。 それでも次は私の番、と思っていたら、どういうわけか、79年に、イランではなく、アフリカのナイジェリアの首都ラゴスに行くようにという指令を受けました。私自身、海外での貿易を希望して商社に入社したのですが、苦労して「右から左へ書く」ペルシャ語をやっと習得したのに、なぜ、今、アフリカへ?と、会社の方針が理解できず、会社を辞めようかとさえ思いました。すると、家内が「海外に行ってみたい」というので、これも経験ということで、79年5月にラゴスに赴任しました。家内は、同年7月に二人目の子供を日本で出産し、80年3月、小さな子供二人をつれてナイジェリアにやってきました。家内のあの一言がなかったら、私の人生は、大きく変わっていたかもしれません。

渋々行ったナイジェリアですが、予想以上におもしろい経験をしました。3年間の駐在生活の間に規模も駐在員が5-6人いたところが帰る頃には15人の規模になるほど発展しました。この国では石油がでるため、プランド設備などが飛ぶように売れた為でした。 ナイジェリアを拠点に、パナマ、ブラジル、など私の仕事の範囲も大きく広がりました。ラゴスでの仕事が軌道にのったころ、イランの駐在にいってくれと本社からいってきましたが、ここでの仕事がおもしろかったので支店長に断ってもらいました。

82年に日本に帰国し、86年まで、原料をアメリカやヨーロッパに輸出する業務に従事しました。ナイロン・ストッキング用の糸や、織物、ニット用の原料など、売れて売れてしょうがない時期でした。その仕事で、欧米以外にも、南アフリア、オーストラリア、チェコ、ハンガリーなどで商売をしましたが、その中で一番おもしろかったのは、なぜかイタリア、ミラノでした。その頃、ミラノ駐在の可能性があったので、手を上げました。そして、イタリア語も今度は独学でがんばろうと思っていたら、皮肉なもので、86年から89年、イラン駐在となりました。ちょうどイラン・イラク戦争の真っ只中です。

90年10月には、ニューヨーク支店に移動、ここでは原料部長です。96年に戻ってきて、本社の課長、部長代行、栃尾事務所長を兼任し、次は本社の部長にしてくれるかな思っていたら、16部あった部が、7事業部に編成替えとなって、部長の席は消えて、副事業部長兼課長の席に納まりました。資材事業部にも経験し、オムツ、フェルト地、サロンパスなど布織地、あるいは新素材などを幅広く扱いました。

入社して30年、大阪本社に15年、海外に15年という時期に、東京本社に移動となり1年間、資材部門の海外責任者をつとめました。そして、やはり、ご縁があったのでしょう、2002年5月に伊藤忠イタリー社長としてミラノに赴任しました。

JIBO:伊藤忠イタリアの沿革と業務内容は?

伊藤忠イタリーは、1960年に駐在員事務所を設立しており、当時は冷凍マグロの輸入や、生糸の輸出が主な内容だったようです。64年に現地法人設立。イタリアだけでなく、リビアやギリシャなどもカバーしていました。70年代に入ると、鉄鋼や自動車関連の輸出入が主流となり、80年代には、繊維ファッションが中心となります。

現在、私が担っている役割は2つあります。一つは伊藤忠イタリーの社長であり、もう一つは、伊藤忠欧州会社の繊維グループのCEOです。
前者については、日本人8名、イタリア人11名、が繊維部門、食品部門2名、財務総務関係8名、29名の体制です。その他、イタリアで投資している会社への日本からの出向者が4名います。また、グループ会社からもミラノに派遣されていますので、彼らも含めると、いざというときの連絡網は35名の体制となります。

伊藤忠イタリーでは、現在、繊維と食品の2部門に業務内容を絞っています。繊維はブランドファッション、原料・資材、テキスタイルの3チームに分かれています。テキスタイルは、日本や中国で生産した布地のイタリアへの輸入もあれば、イタリアの織物の輸出もあります。ブランド関係では、ポッリーニ、エンリコ・コーヴェリ、バリー、ジノリ、ブルガリ、カプッチ、マニエラ・ブラーニ、など多数扱っています。以前とは違って、一つのブランドでガバッと儲かる大ヒットはありませんが、いずれのブランドも日本でコンスタントに売れています

一方、伊藤忠欧州の方は、イタリア、イギリス、フランス、ドイツの4ケ国にスタッフをおいており、日本人13名を含めて38名います。

JIBO:今、力をいれておられるお仕事はどのようなものですか。

日本の原料や新素材をイタリア市場にむいた形で導入することです。
先ほども申し上げたように、化合繊の原料を日本から輸入する場合、日本市場と同じような使われ方をする場合もありますが、イタリアならではの商品開発をして大ヒットしたこともあります。一例をあげると、イタリアの住宅やオフィスでは、天井が高いので、丈の長いカーテンが使われていますが、これには、縦糸に20デールのモノフィライトのポリエステルを用いることで、非常に軽く透明度のあるカーテン地をつくることができます。これは弊社の独占販売で、大変成功したものです。

同時に、資材関係の新素材に力をいれていきたいと思っています。たとえば、イタリアは環境問題にあまりうるさくないため、排ガス規制など遅れていますが、ここにきて、さすがに、問題となっています。日本のディーゼル車の排ガス規制に使われているセラミックなど、イタリア市場に積極的に導入していきたいと思っています。また、世界的に高齢化が進んでおり健康産業や介護関係関連の新素材なども、イタリア市場で大いに可能性があるでしょう。

JIBO:今後、重視していきたいのはどのようなことでしょう。

ちょうど今、商品化され、市場にでつつあるのが、イタリア製の網戸です。イタリアは、蚊が多く夏は悩みの種ですが、冷房装置が普及していないため、夏は窓をあけっぱなしにするしか、冷をとるすべがありません。一方、イタリアの住宅は、ガラス戸も雨戸も観音開きで左右に開くため、日本式の引き戸の網戸は構造上、利用できません。なんとかならないか、そこで考え出したのは、雨戸とガラス戸の間にジャバラ式でアコーディング式に開閉できる網戸です。

日本のサッシメーカーが、アルミのサッシの部分を輸出したいということから、本企画ははじまったのですが、それを輸入したいというイタリアのメーカーのニーズとあって、アコーディング式網戸が生まれました。最初のオーダーは2000セットですが、今後の展開が非常に楽しみです。コロンブスの卵のようなアイデアですが、大きく育つ可能性の大きな商品です。

最近、本社サイドで「マガシーク」というユニークな試みをしています。「マガジン」と「シーク(探す)」の造語で、テレビの人気ドラマで、たとえば女優の松島奈々子がきているファション一式を、雑誌で紹介し、希望者に、そのバックから洋服、靴、アクセサリなど、すべてを本場から直輸入してデリバリーするというビジネスです。テレビ画面が、一種のブティックとなるわけです。一式買えば、30万程度になります。大型のビジネスではありませんが、若い女性、オフィスレディには魅力のある企画のようです。
こうした、一味ちがったビジネスを開発していきたいですね。

それと、私の仕事のモットーは、“Everybody is Happy” です。
皆が幸せになる。自分が一番ハッピーなのがいいのは誰もが思うことでしょうが、そのために誰かが損して苦しんでいるのでは困る。サプライヤー、バイヤー、そしてそれをとりもつ我々、三者共が儲かってハッピーな状態になる。そうしないと仕事の輪は広がりません。

カーテン地についても、それまでなかった新しい製品を創って、新しい需要をつくり、大ヒットとなりました。いい形で、網戸についても同じように、福の神がついてきてくれることと思います。

JIBO:北イタリア日本人会の会長もなさっていますね。

今年2月から、北イタリア日本人会の会長の職にあります。
日本大使館や総領事館の話しでは、イタリア全体で、大使館・領事館に登録している日本人は約9000名。そのうち、北イタリアにはおよそ4800名が住んでいるということです。現在、北イタリア日本人会の会員はおよそ500家族です。会員は、おおよそ、フィレンツエから北に住んでいる方ですが、ロンバルディア州、ピエモンテ州がメインです。

会の活動としては、毎月、会員誌を発行しているほか、12月には、最大の年中行事LA FESTAを日本人学校で開催しています。その他、本の市や秋の味覚ツアーなど、家族連れで楽しみました。なでしこ会という婦人会活動、ゴルフコンペ、テニス大会、文庫活動など、活発に活動しています。

JIBO:イタリアで生活をして感じられることは

イタリアは生活しておもしろいですね。日本では考えられない楽しみが沢山ありますね。
美術鑑賞にしても自在にできますし。

私はサッカーファンで、自宅の目の前がサン・シーロ・サッカー場なので、ACミランの年間通し切符を買いました。750ユーロで、17試合見れます。それで、私は年間予定表に、サッカー試合日をいれて、なるべくこの日だけは時間をフリーにして、試合を見に行くようスケジュールを調整しています。時間があったら見ようと思っていると、仕事のスケジュールがどんどん入ってきて一試合も見れないことになってしまいますので。

家族は、家内と娘二人です。家内はイタリアでの生活をエンジョイしています。イタリア語も勉強していて、文法はよくわかっていますが、会話は機会が少ないため、これからですね。

次女は、現在、日本で大学4年生。高校はアメリカで卒業しています。来春、三井物産へ総合職での入社が決まっています。どんな使われ方をするのでしょうか。長女は既に日本で働いています。

休日は、ゴルフが主ですね。 バカンスには、家族で旅行をしています。スイス、イタリアでは、ナポリやカプリの青の洞窟、ジェノバ、シチリア旅行などをまわりました。移動は、飛行機とレンタカーです。

イタリア語をちゃんと勉強しなければと思うのですが、なかなか思うようにいきません。
いつになるか分からないですが、帰る頃までには何とかしようと頑張りだしたところです。

(終わり)

北イタリア日本人会
Associazione Giapponese del Nord Italia
Via Arzaga 10, 20146 Milano
Tel 02-4830-3500 Fax 02-4830-3492
Email: assonord@micronet.it

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