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ITALY NEWS
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2000/12/01 
 
  イタリアの日本人 
  GIAPPONESE IN ITALIA  

青木 誠 氏
AOKI Makoto


イタリア日本通運社長
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JIBO:これまでのお仕事について

青木:会社経歴の前に何故この運送業界という地味な産業を選んだかを学生時代の中途半端であるけれど少し勉強したことから説明させてください。私は経済学部で国際経済学の「経済発展の諸段階」という論文に興味を持って自分なりに勉強しました。学者に成るほど頭は良くなかったので実社会での自分の行動規範や判断基準になるような知識として学んだ程度であります。

私の父は明治生まれで地方でしたが戦後初期の社会党の政治家で労働運動ではなく原始共産主義的な考え方を持っており北海道の片田舎でその影響を強く受けて育ちました。いわゆる理想の村づくりの信奉者だったと思います。物資が豊かになれば余計な紛争は無くなる。だから物資の余った所から物資の足りない所へ運べば良い。と言う実に単純明快な考え方です。人間の欲望は際限がありませんが市場経済においても社会主義経済においても 「生産する人と消費する人」だけではなく、そこにはその商品を「運ぶ人」が存在している訳です。何か小学生の社会科の授業みたいですが。 その「運ぶこと」が社会性でありかつ公共性だという訳です。

同時に時代的に私は英語を一生懸命勉強して経済を勉強して 日本の経済発展に貢献できる仕事をしたいと思っていました。それも、経済活動としてではなく社会活動として父の理想である物資の平等なる配分に寄与できる 社会性のある産業を選ぶことが私の基本的な考えでした。当時輸送業は未開拓の時代で 勿論ロジスティックス等の言葉も一般的ではない時代でした。ところが1970年に就職活動をしていた時 文芸春秋にこれからは商社が輸送機能を持つか、輸送会社が商社機能を持つかの大国際輸送時代に突入すると書かれたのです。この記事が私が進路を決める上で最終的な判断材料となり輸送会社を選ぶ訳です。

そしてその輸送会社が日本通運なのです。輸送には絶対的にネットワークが欠かせないのです。親方日の丸とよく言われますが 日本全国に支店を配置し、世界に拠点を展開しようとしていた唯一の輸送会社なのです。このように私はかなり明確な計画性と方向性を持って会社を選んだといえます。入社試験の英文和訳にあった「未来の輸送モード」というテーマは今でもはっきりと覚えています。

1971年、日本通運株式会社に入社。東京航空支店の国際旅行部門で外人旅行課に配属されました。今、ご説明したように私は貨物をやるために日本通運へ入ったのであり、旅行部門に配属されるとは夢にも思っておりませんでした。私の今までの勉強と目標はいったい何なのだと思いました。しかしそこからが 私の柔軟性と言うか、いい加減さと言うか素晴らしいところで、先ずは与えられたところで最大の活躍をしてやろうじゃないかと考える訳です。それどころか、入社早々一大プロジェクトを与えられ、仕事に夢中になってしまいました。

ボーイスカウト世界ジャンボリー大会が日本で行われることになり、日本通運はその時アメリカからのボーイススカウト8千人の大デレゲーションの取扱いを受注したのです。そのため、DC8を約65機チャーターするなど準備に没頭しました。以来私は日本通運で、1990年までの19年間旅行部門を担当することになります。

その間、1975年から1976年の一年間はイタリアへ3代目の研修員として派遣されまし た。当時はまだイタリアは駐在員事務所の時代で所長一人と研修員と秘書が一人の小さな所帯でした。駐在員事務所ですからイタリアの代理店との調整業務が主体で旅行から引越し,海運貨物・航空貨物と業務全般の研修を受けました。研修というよりも一戦力として前垂れ商法の店頭見習であり見様見真似で走り回りました。その時しっかりと会話学校へでも行っていれば現在イタリア語に苦労することはなかったのにと後悔しております。25年後の今となってはイタリア語の単語も中々覚えられるものではありません。

帰国後も外人旅行課を担当して日本への外国人誘致の為に毎年年間150日ほど海外セールスに出かけておりました。1980年3月に米国日本通運へロスアンゼル支店の旅行課長として赴任致しました。日系企業を中心に出張をシステム的に扱うコーポレート・トラヴェル・エージェンシーとしての形態を確立しました。1985年本社から旅行部門を別会社にする指示が出され新会社の社長が着任し、私がその補佐として米国日通旅行会社の設立に関わることとなり、米国日通旅行のロスアンゼルス支店長として更に3年間勤務することになりました。1987年に帰国してからは東京航空支店の国際旅行部長直属の新しい課を立ち上げ、在日外国企業のセールスをしました。

勤続20年、1990年に日本通運本社の公用課への転勤辞令を受け、念願の貨物の仕事を直接できるようになったわけです。公用課は、霞ヶ関対応と言われる官公庁対応の課であり、大蔵省の現金輸送、文部省の大学入試センター試験輸送、自治省の選挙関連輸など、役所から出てくる物は何でも運ぶ部署です。中心の仕事が防衛庁関連輸送及び米軍関連輸送で、私は防衛庁と米軍を担当しました。1993年のカンボジアPKO派遣、1994年のモザンビークPKO派遣、ルワンダ難民救済派遣、1995年のゴラン高原派遣まで私がその関連機材及び物資の輸送を担当し、ルワンダ難民救済派遣ではザイールのゴマに一ヶ月間自衛隊と共にテント生活を送りました。

1995年の阪神淡路大震災の時は自衛隊とともに震災発生の5日後でしたが現地入りをしてその凄まじさに直面しました。本社の国際貢献協力室の開設も中心となってやった仕事です。援助物資輸送の世界中の入札に参加するほか、日本国政府の事業や赤十字、国連、ユニセフ、UNHCR等の事業に参画しました。日本通運の本社元請営業として日本通運の総合的な輸送モードを組織的にも実務的にも全て経験することができました。1995年に東京航空支店の国際貨物部・公用課、担当次長として着任しました。現場レベルでの航空業務を経験させてもらい海外現地法人経営の準備期間となりました。

1997年7月7日再びイタリアに着任しました。研修の時以来22年振りのイタリアでした。日常業務の中でもイタリアとの関連が無くイタリアの研修員であったことすらすっかり忘れておりました。とにかく22年前とはいえ研修とは有難いもので 少なくともカルチャーショックは無しで済みます。とっくの昔にショックは乗り越えておりますので着任のその日から活動ができたと思っております。というよりも私としては 最初の100日間で何をどの様にするかが大事なのです。現地の事情に慣れるよりもフレッシュな内に打つべき手は打つというのが基本です。

JIBO:イタリア日本通運の概要について

青木:日本通運は設立1937年で総売上高約1兆3千億円。輸送業としては世界第3位ですが1位2位はドイツ国鉄とフランス国鉄ですから業態からすれば日本通運が世界一の輸送業者です。社員数は約42,000人、日本全国に1,200の支店があります。総合輸業者として全ての運送部門で一番にならなければいけませんが宅配便だけはいまのところ2位です。海外には33カ国に247拠点があり8,600人の社員がグローバルに活躍しております。

一方、イタリア日本通運は1988年創設で日本通運本社100%出資の子会社です。駐在員事務所としてはローマに35年前ぐらいからありました。しかし現地法人化には永年どうも二の足を踏んでいたようです。私が4代目の社長になりますが 現在の社員数は65名で中日本人出向社員が5名と研修員が2名です。ここミラノが本社でトリノ支店とローマ支店とフィレンツェ支店があります。年間総売上高は300億リラ強ですからまだまだ小規模の会社です。

業務内容は航空貨物部門が全体の70%で海運貨物部門が30%のシェアとなっており海運貨物部門の中に引越し貨物が全体のシェアとしては約5%あります。その他に海外ペリカン便も扱っています。イタリア法人は他の欧州地域現法と比較して輸出依存度が高く海空とも輸出のシェアが70%と輸入が30%となっております。輸出商品は繊維ファッション・アパレルが圧倒的にシェアが高く、また日本向けの輸出が同じく高シェアを占めております。

これは当社が日本の会社である以上はやむを得ない状態かもしれません。しかしイタリアにおける国際企業として位置付けるならばやはり対米の市場が最大であり、欧州域内輸送も含めて多様性の有る市場の確保と扱い商品の多様性も追及しなければなりません。

JIBO:イタリアでの業績について

青木:着任以来、3年が過ぎましたが 1998年と1999年は構造改革と軌道修正の期間となっ てしまい大変不本意な二年間となりました。95―96年後半までは、日本向けの輸出はよかったのですが、その後、日本が不況になり、特に繊維やファッションは非常に苦しい状況になりました。特に、私がミラノに着任した97年7月から、弊社売上高の前年度同期比がマイナスになってしまいました。実際、96年の後半から数量ベースでは減っていたのですが、業績としてはっきりとマイナスとでたのはこの月からなのです。

イタリア発の繊維ファッションや袋物の輸出量は1996年の後半から今でも続減しています。それは日本の景気の後退もありますが 中級品以下の商品がアジア特に中国製品との競争力を失ったことにあります。その結果安い労賃を確保するためにイタリアの企業もアジアや中東欧にその生産拠点を移してしまった結果なのです。これは日本がプラザ合意の後の円高ドル安に押されて企業の生産拠点をアジアに移した時期から10年は遅れて顕われた現象です。日本の景気が回復しても生産拠点が移転した以上タリア発の繊維ファッション輸出が以前のように数量で復活することはないと危惧しております。

現在伸びている貨物は食品関連です。パスタ・トマト・オリーブオイル・ワイン等は以前から活発でしたが数量が確実に伸張しました。更にチーズとハムがこのところ新規に著しい伸張を示しています。家具及び照明器具も順調に推移しており 特殊機械やプラント関連機器も強くスポット的ですが大量に輸出されています。輸入については イタリアが欧州の保管配送拠点になっていないために今後共伸張は期待できません。それは税制の複雑さと高さ 労使関係の困難さと法制の不透明さがあって国としての誘致も無策で イギリス・ドイツ及びベネルクス諸国との競争にはなり得ないからです。

人口市場でみればイタリアは8千万人のドイツに次いで6千万人台でイギリス・フランスと肩を並べた大きな市場規模がありながら 商品が直接市場に入って来ないのです。ほとんどが欧州北部からの域内転送となって 我々の仕事から保管配送業務を奪っているのです。2002年にEUの統合の最大の課題である通貨ユーロの統合になった時に他の国との競争力がどうなるかが大きな問題です。

JIBO:苦しい中、どのように対応なされたのでしょうか。

青木:正直なところ,イタリアにきたら、いろいろ仕事ができる、あれもこれもやりたいとおもっていたのに、こういう状況に直面して、正直めげました。しかし現実には、対応していくしかない。始めは、がんばってセールスをして、営業を拡大しようかと思いましたが、冷静に考えて、市場自体が冷えている時期なので、拡大ではなく、じっくりと耐える戦略をとることにしました。それには経費を押さえ込む、削減していくことが不可欠です。

まずは、徹底的に経費節減を試みました。また、人員が多すぎることもすぐにわか りましたので、2年間準備して、人員削減計画もたてました。イタリアへの赴任前にいた東京航空支店で、当社で初めてISO9002取得の準備に入ったという経緯があり、直接の担当ではなかったのですがISOの基本コンセプトと社員に対する実際の研究と指導を一緒に学ぶことが出来ました。そのため、イタリアに着任して直ぐにイタリア日通でのISOの導入に踏み切ることができました。まずは、75名の社員全体のインタビューを開始しました。平均30分、主任以上は1時間程度の時間をとって、社員一人一人の面接をして、彼らの特性や将来性などを評価しました。

ISOを持ち込むことに対しては、会社側からの一定のモデルや評価基準を持ち込むことになるので社員の反応はどうかと心配しましたが、実際は、かえって目標をはっきりすることで、一般社員もはりきってくれました。これまでは、景気もよく、いわば仲良しクラブでやれたのです。景気がよい時はなにをやっても評価されるのですが、業績が悪くなったことでこの機会に少数精鋭の体制に再構築しようと考えたわけです。

また、イタリアの会社は通常、トップダウンというか下の人は上の人のいうことに付いて行けということが多いのですが、なるべく、下の人にも目標をもってもらって、からのボトムアップもはかることにもつとめたのです。全員参加の意識を持たせることです。経費削減としては、あらゆるサプライヤーとの契約の見直しをしました。嬉しかったのは、細かいことですが、ゴミのコンテナーをそれまでは、有料で購入していたのですが、隣に収集場ができたということで、社員が自発的に車で運びましょうという提案をしてくれたことです。少ないけれどもこれで、年間2000万リラの経費が浮いたのです。要するに意識の問題です。もう一つ、大英断は、事務所が2ケ所にわかれていたのですが、新しい場所を借りて、一つにしたことです。引越し代もかかるし、業績が悪い中でのとまどいもありましたが、結果的には合計のスペースは増やしかつ賃貸料は以前より押さえることができました。

業績が悪い時には 本社に経営改善計画を半年ごとに提出せねばならず、着任後、4期、99年前期まで毎回、「お叱り」を受けるというはめになりました。我々の仕事は、お客様の輸出が増えれば、取り扱い高も増えるという形になっています。実際、不況の際はイタリア発日本行きの業務が激減しました。一方、日本からイタリアへはびており、片荷の一方通行で、ジェノバの港に、空のコンテナーが山積みとなる光景をみざるをえませんでした。

やっと光がさしてきたのは、99年後半からです。ようやく構造改革の効果が現われ今年は計画通りの実績が出せると思っています。経済環境の変化を見極めた設備投資や予算計画を立てないと大きな打撃を蒙ることに成ります。99年9月30日、2年間の綿密な計画をもとに、75名の社員から10名の人員解雇を実行し、体制を65名としました。日本人社員も7名から5名と削減しました。イタリアでは労働者保護が強く、解雇は大変むつかしいのですが、経営改善には不可欠ということで実現したわけです。多額の和解金は支払いましたが、幸い、和解調停ができました。しかし社員を解雇したことは自慢できることではなく経営者としては痛恨の極みであり二度とあってはならないことです。イタリアの行政はあてになりませんし 組合の難しさはあるものの、一人一人の社員は良く働きますので社員の労働意欲を捉える方針をしっかりと立てられれば 充分に結果は出せるものと信じています。

JIOBO:イタリアの輸送業界の特色について

青木:イタリアの輸送業界の特色としては、中小企業が多いということが言えると思います。イタリアの産業構造をそのまま、輸送業界も反映しているといっていいかと思います。ですから、イタリアには、日通のような大手がまったくありません。地域性が強いことも特徴で、全国レベルで仕事をしている企業もほとんどないのです。

さらに、日本で普及しているような一般むけの宅配便というのは、普通の家庭で使うという発想もないのが現実です。生活の基盤は、多くは地域に根ざしていて、直接の人間関係が濃いのがイタリア社会ですので、わざわざ急いで物をおくる、という必然性がないように思えます。また、郵便事情が悪かったこともあり、大切なものを他者にあずけて運んでもらう、ということへの不信感が強いことも事実です。更には 必要以上の便利さを求めていないと思います。

ビジネスの分野でも、地域単位で統合化されていますし、日本でも有名な産地の産業構造を見ると、地域内に同業者や部品メーカーなどが集中していて、その中で、融通しあっているので、国内の遠隔地に大急ぎで何かを運ぶというニーズが非常に少ないのです。

輸送業界も業種別に細分化していて、かつ地域密着型で小さい業者が多い。ですから、結果として物流の全国レベルでの総合的なネットワークというのがイタリアでは作られてこなかったといえます。最近でこそ、大手多国籍企業の運送会社や宅配便会社がイタリアに進出していますが、全国レベルのネットワークとなると大変苦労されておられるようです。

JIBO:今後の重点課題としてはどのようなことをお考えですか。

青木:第一は、日本市場偏重から国際的に対米・対アジアのシェアを拡大することです。特に、イタリアから米国への輸出す。イタリアの輸出の48%は米国むけです。日本への輸出業務でお客さんになってくれたクライアントさんが、米国にも輸出するとなると、その便も我々が、という形で推進しています。米国の日通は、米国内でも業界第三位であり、2000人の従業員をかかえています。対日本というだけでなく、日通としてのグローバルなグループ内での、取引を拡大するのが急務です。

第ニは、イタリア国内拠点の拡大と現地化の推進です。ヴェローナ・アンコ―ナ・ナ ポリ地区への進出を予定しています。日本国土の75%の広さを持つこの国で要所要所に拠点を構えることがイタリア全土をカバーし、地中海経済圏を見据えた拠点戦略となります。そしてそれを遂行するのがイタリア人スタッフです。重要ポストにも現地社員をどんどん登用することが拠点展開の鍵となります。そして、最期には、情報化とネットワーク化の益々の推進が最も重要だと考えております。IT革命はまさに輸送業界において最強のツールなのです。情報によって産業構造はどんどん変わりますが実輸送は益々その需要を高めて行きます。スピードと確実性が必要です。電子商取引にも積極的に取り組みたいと思っています。

JIBO:ご家族や、イタリアでの生活について

青木:家族は妻と大学2年生の娘と高校1年生の息子の4人家族ですが お父さんが単身で生活しております。学年からもお分かりのように、昨年は娘の大学入試と今年は息子の高校入試が続いていたために家族会議で必然的に単身赴任が満場一致で決まりました。一昨年の春休みに娘の受験の間隙を縫って10日ほど家族がイタリアで再会しつかの間の家族団欒で観光を楽しみました。私が提案したものですからこれで娘が受験に失敗でもしたら恨まれるだろうと悩んでいましたが、合格してくれてホットしました。

来年の春にでもまた今度は息子の受験の合間を縫ってイタリアに遊びに来るように薦めています。私は年に一回海外代表者会議というのが本社で毎年8月に開かれるのでその時だけ二週間ほどの一時帰国です。高校生や大学生の時に父親が少しでも一緒に居られるのが本当は良いと思うのですが。従って妻には家族や家庭のことを全て任せきりなので大変だと思っております。ただ新聞や雑誌で興味有る記事があったり小説でも子供達の趣味や勉強していることの関連は直ぐファックスで送ったりメールで感想を伝えます。どの程度感心をもっているかは判りませんが。一方的な送信でも良いのです。誕生日とか卒業だとか節目節目にメッセージを送ります。父親が何を考えており何を基準にしているかを知らせるだけで良いのです。

スポーツは何でも適当にやりますがどれもものになっていません。北海道で生まれ育ったので、スキー・スケート、アイスホッケーが好きです。ミラノは樹生が全く北海道と同じでリラックスできます。こちらへ来てから一シーズン二回ほどしかスキーには行っていませんが実に環境が素晴らしいと思います。趣味は一人で居ること、本を読むこと。雑読です。歴史書・エッセイ・ノンフィクション・比較人文学的なものが好きです。今は単身で時間が自分で調整できるから年間に100冊くらいは読みます。日本に居た時は精々50冊くらいでしょう。週末はアパートの周囲約5kmをジョギングしていますが鍛えるのではなく1週間で溜まったアルコールを抜くのに汗をかいている程度です。後はクラシック音楽を聴く事。コンサートのシーズンが始まりましたがその意味ではミラノはよい環境ですね。シーズンチケットを買って定期的に聴きに行っています。 (聞き手 大島悦子)

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  日本のイタリア人  
  ITALIANO IN GIAPPONE 

エンニオ・チェッリ氏
Ennio Cerri


フィアット・オート・ジャパン社長
(il presidente della FIAT AUTO JAPAN)

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フィアットの事務所を訪ねました。品川駅近くのまだ工事中のビルもある開発地域です。数年後、品 川のこの界隈は本当のビジネス街に変貌しフィアットのみならず、日本の企業も多数やってくること でしょう。

チェッリさんは1950年、ピエモンテ州、ヴァラッロに生まれ、トリノ工科大学を卒業しました。フィ アット自動車(株)に入社したのが1976年です。マーケティング部、製品部、技術部などで経験をつ み、1981年から1987年まではイタリア国内また欧州の部品部門に携わります。

その後1987年にフィアット(株)に移籍し国際関連の業務に従事しました。1988年にフィアットグ ループ代表事務所に次席として来日し、1994年に社長に就任し、2000年3月フィアッ ト・オート・ジャパン社に社長として就任しました。

*****

JIBO: フィアット・オート・ジャパン社はいつ設立されたのですか?

CERRI:フィアット・オート・ジャパン社は1990年、はじめ、アルファ・ロメオ・ジャパン社として 設立され、のちフィアットの名の入った今の社名になりました。

フィアット・オート・ジャパン社はフィアット社、アルファロメオ社製自動車の公式インポーターで す。直接販売はしておりません。日本各地の独立系販売店を通して販売しています。現在70箇所ぐら いの販売拠点があります。

ここフィアット・オート・ジャパンでは50人位が働いています。そのうちイタリア人は5人です。

JIBO:ランチャはどうなのでしょうか?

CERRI:現在のところ、ランチャは売っておりませんが、将来ランチャも販売できたらとは思ってい ます。日本でのランチャの販売が難しい理由の一つは、右ハンドルの車を生産していないことです。

JIBO:日本では何台くらい売っているのですか?

CERRI:本年度の売上台数は、アルファ・ロメオが約5000台、フィアットが約2000台の見込みです。 2001年の期末は、アルファ・ロメオが6000台でフィアットが4000台、合計10、000台にとどくだろうと 期待しています。

JIBO:フィアットの売上予が2倍になると見ているわけですね。

CERRI:はい。日本では今年7月に売り出したフィアット100年記念車、新型プントが大成功を収めま して、すぐには供給が追いつかないほどの注文でした。現在、注文した車の到着待ちの状態で、この 車種はまだまだ売れると思っています。日本の消費者に提供できる車種も多くなったこともあり売上 が伸びています。 現在、販売しているもののほとんどが右ハンドル、オートマチック対応になっており、少しづつクラ イアントに満足がいただけるようになってきています。

オートマチッククラッチは日本製のものを組み込んでいます。小型用のものは富士重工業製で、中型 用にはアイシン精機のものを使用しています。

JIBO:御社の車の何が、日本人の顧客の心を捉えるのだと思われますか?

CERRI:私どもの車は、際立ったエリートのイメージがあるんだと思います。美しさ、洗練されたイ タリアン・デザインが、他社の車との違いです。それが伝統と歴史に裏打ちされていると思います。 特にアルファロメオのレースの歴史などがいいイメージとなっていると思います。私どものクライア ントは本当の自動車ファンが多く、その多くがアルファロメオの熱狂的ファンでもあります。

2001年の日本におけるイタリア年にはアレーゼのアルファ・ロメオ博物館から歴史的な車を15から20 台を持ってくる予定です。きっと日本のアルファ・ロメオファンには忘れられない展示会となるで しょうし、アルファ・ロメオを運転したことのない人にもきっと気に入ってもらえると思います。

日本にはアルファ・ロメオやフィアットのファンの集まりがよくあります。フィアットに関しては、 バルケッタとアバースが人気があります。

JIBO:日本の市場に参入に際し、どんな困難がありましたか?

CERRI:多分のどんな外資系の会社にとっても最初は大変だと思います。でもそんなに困難ではな かったと思っています。私どもの車を愛してくださる方々のお蔭で、マーケットに入る事ができたの です。

マーケットの求める機種やモデルが増えるにつれクライアントの数も増えてきています。

JIBO:日本でフィアットの活動をずっと見ていらっしゃったわけですが、フィアットは自動車以外の部門に も進出しているのですか。

CERRI:北海道に、ニュー・ホーランド・ジャパン社という合弁会社があります。50%をフィアット が出資、残りを日本の会社が出資しています。ニュー・ホーランド社はトラクターを輸入していま す。大型トラクターでは市場の20%を占めています。草刈機では、市場が小さいとはいえ、50%以上 のシェアを占めています。また、イヴェコ社はの大型消防車を日本に売っています。

JIBO:一般的に、日本についてどう思っていますか?

CERRI:1988年から私は日本にある500以上の工場を訪れる機会がありました。そして生産部門の品質 と効率に就いては日本人は本当にすばらしいと思います。。

私は日本がとても好きです。ここに12年暮らすことができてとても幸せに思っています。日本は歴史 や伝統が豊かで、人々は本当に親切で礼儀正しく、人間を大切にする国民だと思います。日本の公共 機関のサービスは正確で迅速だと世界中で有名です。そして多くの人が思っているのとは反対に、こ の国は、特に東京はとても国際的です。何でもあります。それから大きな長所の一つとして、この国 は安全で犯罪率がとても低いという事を挙げなければならないでしょう。

よくない面ですか?それは物価が高いことですね。何でも高いです。家賃を例に挙げると、本当に驚 きます!!!

JIBO:日本の市場に進出したいと考えているイタリアの企業家に、何か助言することはありますか?

CERRI:家賃のこともありますが、イタリアから人を派遣するのがいいでしょう。現地でネットワー クを管理するのが大切です。

エンニオ・チェッリさんは大変紳士的な人です。洗練された落ち着いた人柄で、癇癪を起こすことな ど想像することもできません。周りにいる人もゆったり落ち着いた気分にさせます。

教養のある国際人ですが同時にイタリア人の暖かさも伝わってきます。お嬢さんについて語るチェッ リさんに今日的よきイタリアの父親を見た思いがしました。(k.m.)


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