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ITALY NEWS
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2000/07/01 
 
  イタリアの日本人 
  GIAPPONESE IN ITALIA  

多司馬 茂 氏
Shigeru Tajima


資生堂イタリア株式会社   代表取締役社長
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JIBO:イタリアに赴任なさってこの6月で満10年とうかがいましたが。どのようなご経歴ですか。


多司馬:私は、1975年、25年前に資生堂に入社しました。1978-79年にニューヨークに業務研修のため滞在したのが最初の海外の仕 事です。入社当時から、海外のビジネスに是非チャンレンジしたいという気持ちがあり、この時にアメリカに行けたことが私の一つの分かれ目になったと思います。

その後、80年代頭は、国内のデパート関係のマーケティングやプロモーションなどを4年程担当しました。その後、84年から90年までは本社の国際部門で主にグローバルむけの商品開発、宣伝コミユニケーション、マーケティングを行ってきました。

そして、90年6月18日、ワールドカップの真っ最中のイタリアに来まして、この6月で丁度10周年です。当初イタリア人の現地社長がおり、私は副社長として赴任し、97から私が社長となりました。当時社長だった者は86年から10年間、イタリア資生堂の基盤を固めてくれました。その後を私が継承しているわけです。

JIBO:資生堂イタリアの歴史は大変長いようですね。

多司馬:資生堂イタリアの発足は1968年ですからもう32年になります。「どうしてイタリアにこんなに古くから」と聞かれるのですが、資生堂としても実はイタリアがヨーロッパ第一号の現地法人なんです。また、「化粧品の本場はフランスではないの か。何故イタリアで」と訊ねられることも多いのですが、資生堂では、ビジネスとしてヨーロッパで成功するためには、どこの国でどういう市場でアプローチするのが、結果的にヨーロッパのビジネスの成功に繋がるかとスタディから入りました。

まず、フランスは圧倒的に強いメーカーが存在していてハードルが高かったのです。一方、英国はご存知の通り「デパート市場」です。ヨーロッパではパヒューマリー(化粧品小売店)をパートナーとしてのびていくことが重要課題ですので、英国も条件があわなかったのです。比較的ハードルが低いというと、語弊はありますが、我々の身の丈サイズに合うのが、オランダとイタリアでした。特にイタリアは、化粧品市場として大きな規模があったこと、それと、圧倒的に小売店市場だったことが、イタリア進出の決定打となりました。それと、ある種、日本人にとっては非常にフレンドリーな国でした。小売店市場ですから、大規模投資をしなくても出発できる点をかったのです。

これが、1963年から68年まで5年間、代理店という形態でケーススタディをし、68年に100パーセント子会社の形態で入っていくことになった背景です。 初代社長は日本人ですが、彼の戦略としてはまず、イタリアで基盤を固めて、ここで得たプロフィットをこのヨーロッパの他地域に再投資することにより、自分たちの独力でヨーロッパでのビジネス展開が出来るようなことを、絵として彼は考えたと聞いています。絵に描いた通りに順調に進んだわけではありませんが、60年代に私どもの持っていた力量と市場のサイズやニーズが上手く合ったということは、イタリア進出の成功の基盤を築いたということはいえると思います。

とはいっても、実際は、68年に子会社を設立した後の10年間強は暗中模索の時期でした。商品は日本から輸入した商品をレーベル張りして、そのまま販売していました。いわゆる、現地だけの専用の商品を作るボリュームではありませんでした。

実際に海外―ヨーロッパにおける資生堂のビジネスの骨格が固まってきたのは、1980年代に入ってからです。まず海外専用ブランドというものを、きっちり創り、商品を作ったら、第二に資生堂の顔として市場に向けてコミュニケーションして行く時のイメージづくりをはじめました。イメージクリエータのセルジュ・ルタンスに全面的に任せてブランドイメージ形成の時代ですそれまでは、日本で使っていたポスターイメージを海外向けに応用したような時代だったのですよ。

このようにイタリアである程度、ヨーロッパビジネスの下準備をして、80年代にフランス、ドイツに進出しました。特にフランスに入る時には商品だけでは、全く通用しなくて、"あなたたちはどんな会社ですか?どういう顔をもっていますか?"というブランドとしてのイメージが決定的に必要だったのです。

JIBO:現在、イタリア市場における資生堂のシェアと会社の陣容は?

多司馬:イタリアの化粧品市場は、スキンケア、メーキャップ、フレグランスの3分野で構成されています。この「三種」総合では、資生堂は第3位です。99年1位はディオール、2位がランコム、3位が資生堂、4位がシャネル、5位がエスティ・ローダーです。ディオール、シャネルは売上の5割がフレグランスです。逆に資生堂は、5割から6割がスキンケアで、25パーセントくらいがメーキャップでまったく、商品構成が違います。ただし、スキンケアの市場をとると、資生堂が圧倒的に首位です。それと、ファンデーションでは、資生堂はイタリアの市場でナンバーワンです。

今は私が社長、副社長も日本人です。日本人は、私の秘書をいれて計3名。販売、総務、人事、EDP、宣伝広報など営業活動は全部イタリア人です。イタリア人の支配人―DIRETTORE GENARALE-彼が、イタリア市場におけるビジネスの全般を見ており、部門のディレクターもすべてイタリア人です。セールスマン、ビューティーコンサルタントを入れて、イタリア人が127名。です。合計130名で、売上は1300億リラです。

やり甲斐は自分たちで、実際の流れを一つの会社を全て運営できること。結果に対して責任をもてるということです。日本の資生堂は親会社ですが、経営に関してはほぼ100パーセント現地に委ねられています。勿論経営目標、年度計画の刷り合わせがありますが、それを自分たちで実際に実行していくということは、全て任され、100%責任を持っています。日本の銀座にいて、今月イタリアでどのスキンケアが売れるかという予測はたてられないですよね。

JIBO:ここまでイタリアで「成功」なさった秘密はどのように分析しておられますか。

多司馬:成功の秘密の背景には、第一にイタリアには強力な地場メーカーがなく、市場自体が非常に平等な競争条件にあったことをあげられると思います。ですから、チャンスは誰にもあったのです。勿論ヨーロッパですから、フランス系が、圧倒的に強いですし、知名度もイメージも有りましたけれど、ただ、マーケット、特にお得意先の化粧品店が平等にブランド評価してくれたというのが大きいですね。欧米全部に共通することなのですが、1ブランドで10%をこえる市場シェアを持っているメーカーはないんです。というのは、それこそ、フレグランスまでいれますと、50も100ものブランドを一つのお店で扱っているのです。いくらがんばっても、10パーセントのシェアを取るというのは至難の技です。

それと、イタリアのお客さんというのは、結構新しいもの好きで、結構お金も使っていただけます。そういう意味で、ビジネスとしては平等な競争条件で、うまくその競争に入ることが出来たということです。

また、イタリアの流通市場の特色ですが、圧倒的な小規模専門小売店市場であるということです。イタリアもここ数年でようやくドイツ、フランスと同じように集約化の時代に急激に入ってきて、当初小売店が、全国に約8000軒あったのが、今は6000軒となりましたが、それでも圧倒的な小売店市場です。そのうち、いわゆるセレクティブショップ、我々のブランドのランクにあうパヒューマーは上位2000軒程度あり、その中の1500軒と資生堂イタリアは取引をしています。

もう一つ、我々の強みは、他のブランドにはない、スキンケアという特色にありました。ヨーロッパはフレグランスとメーキャップ中心の国で、「お肌のお手入れ」いう感覚そのものが、当時はまだニーズがなかったのです。ですから、スキンケアにヨーロッパ人が真剣に取り組みだすタイミングと、我々の資生堂が商品、あるいはイメージ、コミュニケーションを形成して市場に出たタイミングとが、まさに一致したのだと思います。

スキンケアの市場が形成される前段階だったところに、スキンケアが専門とする資生堂が進出し、自分たちの強い市場を作ることが出来たわけです。他とまず何が違うのかというのを区別し、スキンケアをベースにしてハイクオリティーとハイプレステージで、お客さんにコミュニケートし続けて来たのです。市場の頂点だけを対象としてきました。

そして、それに対する時間への投資。とにかく、一貫してその1点への投資です。'10年一途'という言葉がありますが、それを飽くことなく言い続け、守り続け、投資し続け、資生堂と言えば、'スキンケア、品質はいいけれども高い'といわれるようになったわけです。これが、我々の戦略であり、ブランド形成の歴史だったといえると思います。私どもの商品のライフサイクルは長く、20年以上,人気のある商品があります。今単品でナンバーワンアイテムは88年につくった製品で、2000年の現在もスキンケアの中では単品世界ナンバーワンアイテムで、イタリアでも年間で20万個売れています。

JIBO:今後の資生堂の戦略についてはどうお考えですか。

多司馬:先ほども申し上げたように、ヨーロッパの化粧品市場はフレグランスが重要で、5割以上を占めています。個人ユーズもあるのですがギフト市場が大きいので、ある程度フレグランスの市場を持たないと、「総合」トップの座というのは厳しくなっています。ですから資生堂ブランドで強いフレグランスをつくっていくのが今後の大きな戦略です。

資生堂というと'お母さん'のイメージがあって、「安心」や「信頼」というイメージが強い。一方、フレグランスは「愛人」のイメージです。ヨーロッパ系のメーカーは「パッション」や「エモーション」の世界です。その軸で戦ってもフランスのフレグランスメーカーとは競争出来ない。それで、我々が最近とっているのは、資生堂はサイエンスの風土が強いですから、「この香りを使うことによって、こういう効用がありますよ」というアロマテラピー的な発想のフレグランスの分野で、私どものマーケットを形成して行くという戦略をとっています。

JIBO:イタリアのビジネスの進め方については

多司馬:イタリアの強さは、多様性と底強さですね。日本とイタリアのビジネスの違いというと、イタリアは結果に向けてのアプローチが実に多様性です。日本は、どっちかというと、プロセス重視でそれで疲れてしまうことがありますでしょ。こちらでは、会議のための会議は全くありません。私はこの会社の責任者ですが、日本的な会議はありません。必要があれば必要な人を集めてその場で決まる会議をすればよくて、問題解決を求める結果をその場で出す為の会議です。会議の企画書だとか、提案書などというのは、一切いりません。その時のデータを持ってきてくれれば、それでいいわけです。

ビジネスマンという部分で、イタリア語でVIRTU''、個のもつ力量が第一にでてきますね。その'個'の持つ力量をまず判断する、それがひとつひとつのビジネスマナーにも出てきていますね。例えば名刺、イタリア人の方はほとんど使いません。個人の仕事、ビジネスに対する評価、これがベースにあって、それが会社を構成するということです。だから、人の採用を含めて全部そうですね。その人の何がその会社に貢献出来るんだという視点で人を採用するわけです。

JIBO:イタリアで仕事をなさって一番感じることは

多司馬:最初は右も左もわからないので、難しいことも分かりませんでした。5年目くらいになると感覚的に半分イタリア人化しますので、非常に仕事がやりやすく、イタリア人に関する理解が自分では深まったつもりでいたのです。そして、最近非常に難 しいと思うのは、でもやっぱりイタリア人は難しいなという一つの壁がみえてきました。10年間でイタリア人を見抜く力がついてきてしまったように思えることです。これは幸であり、不幸です。10年間、朝から晩までイタリア語、ましてイタリ ア人と仕事をしてくると、自分なりにどこで見切りをつけるかが見えるのです。なにもしなければいい人だ、でも10年の経験からするといい人なんだけれども本当はこうだよ、でも、プラスマイナスして、人,仕事をどこで見切り評価するかとい う部分です。

同じことは、イタリアという国に対する評価にも通じます。やはり、経験から来る澱のような蓄積があります。この国の難しさというのは、世界でも有数の歴史をもっていますので、何事も一筋縄ではいかない。この国は奥が深くて、10年いて初めてこの国は難しいというのが分かってきたかというと、やっぱりこれも蓄積なんです。2000年以上、世界のトップテンにローマ史以来この国はずっとはいってきたわけです。この間、常に戦ってきた歴史が、騙したり、騙されたり、特にビジネ スの面で言えば、駆け引きで生き残ってきた国ですから。ですから、それが分かってくれば分かってくるほど、私自身がどう対応するかという選択肢の幅が重要になってくるわけです。そういう難しさという意味では感じます。こちらは、或意味での世間体、公共心はないです。それが、2000年間常に世界の先進国の中に生き残ってきた、この国の強さなんでしょう。

この国の強さの良い例を挙げますと、サッカーです。駆け引きもエレガント。オリンピックでもワールドカップでも、最初はふらっとしていて、もうこれで駄目だと思わせていて、でも結果的には、必ず決勝までいくんです。10年いれば、この国に私は育てられたという実感が、年に2回日本に帰る時に思うのです。自分の言い方が、イタリア的なテクニックも含めて日本人ではないような気がします。そういう意味では、日本では決して身につけることの出来なかったことを、この国で学びイタリア人ビジネスマンから教えてもらいました。結果に向けて、アプローチの対応性や選択肢がいろいろあることを身に付けました。要するに日本的な組織やベースのしっかりした国でないイタリアの経営というのはリスク管理だということを学びました。最低限ビジネスマンとして生き残るための、或いは会社として生き残るための、ビジネス上の要件、これをイタリアで学びました。

JIBO:イタリアでの生活についてはいかがですか。

多司馬:一番心配なのは、私は日本に戻った時、日本の生活に耐えきることが出来るかということです。毎日の生活は、ごくごく普通です。子供が3歳で小さいですから、土日は子育て、家族単位の子育てに集中出来ます。出張等があれば別ですが、基本的には土日が仕事というのはまず無いですから。夜は、管理職は時間制限なし、終わるまでやる、一般的にそういう意味ではよく仕事しますよね。でも、いわゆる日本で言うお付き合い的なことは、ほとんどないので、基本的には家でご飯をたべます。やはり駐在員生活をしていて、家族の絆というのは大切ですし、子供の顔をみながら生活できるのというのは、幸せなことですね。休暇は、こちらで、最初はヨーロッパ各地を観てまわりたいというのがありましたが、ここ数年は一個所にずっと、山なら 山に一個所、海なら海に一個所、完全にイタリア型になりました。例えば今年の夏は南イタリアのカラブリアの海に、会社の休みの間、2週間中行っています。 (聞き手  大島悦子)

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  日本のイタリア人  
  ITALIANO IN GIAPPONE 

アルベルト・アリエッティ氏
Dott.Alberto Arietti


サンパオロIMI銀行
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今日、サンパオロIMI銀行東京支店のシニアーマネージャー、アリエッティさんに会いました。地下鉄、御成門駅のすぐ近 く、芝公園、増上寺の緑が目の前です。東京タワーも見える眺めのいい会議室で待っていると、満面に笑みをたたえてアリ エッティさんが現れました。

雑談の中で、ふと野球について述べられました。イタリアではライト守り、4番打者だったそうです。監督もしていたそう で、インターレジョナル大会決勝戦で1対0で負けた時の話もしてくれました。若々しいスポーツマン精神旺盛な方だなとい うことが判り、大変リラックスした楽しい雰囲気でのインタヴューになりました。



JIBO:アリエッティさん、イタリアはどちらの御出身ですか。

アリエッティ:ピエモンテ州、フォッサーノの出身です。クネオ県です。この小さな村の事を知っている同国人に東京で会うのには驚かさ れます。カラビニエーリや軍隊の兵舎があったり、仕事で地場企業と関係があったりしたことがその理由のようです。新宿 の近くにフーディアムというビルがありますが、そこのレストランは私のくににある会社の名を名乗り、そこの製品を使っ ています。驚きでしょう。製品て無論パスタですよ。

JIBO:初めて日本にいらしたのは何時ですか。

アリエッティ:1981年上智大学市ヶ谷校舎で夏期講習を受けました。1983年にも同じ夏期講習を受けました。教授陣側だったヴォルピさん に会ったのはそこでです。感銘も受け、以来大変お世話になっています。私が日本に惚れてしまったのには、彼のせいも少 しはあるのです。

JIBO:何か困難なこととかありましたか。

アリエッティ:勿論ですよ。特に最初の頃はね。初めて日本にきた時のことを思い出します。まるで他所の惑星にでも着陸してしまったよ うな気分でした。多分当時の飛行機旅行は今よりずっと時間がかかったということも影響していると思います。 まず第一に、看板やら表示は殆どのものが何を書いてあるのか判らない。大学が回してくれたタクシーの運転手さんだって 宿舎がわからなくなってしまって。郵便配達の人がバイクで前を走ってくれて、私の乗ったタクシーはそのあとをずっとつ いていったのです。ようやく目的地に着いたのですが、次から次に、問題続出。鴨居はえらく低いし、シャワーもえらく低 いはで、体を折り曲げかがんで何でもせざるをえない。部屋だってとっても小さいんです。でも最も印象的だったのは、 ラッシュアワーに電車に乗ることでしたね。

憶えていますけど、はじめの電車が来るのですけれど、これには乗るまいと思 うんです。だって、超満員なんですから。次を待てばいいさと思うんです。でも5台目には観念しました。多分状況は変わ らないだろうと判断し、授業に遅れないためにも乗り込みました。そう、それから思い出すのは、当時は西洋人に道で行き 会うとお互い笑顔を送りあったものです。一つはお互いほっとした気になったものだし、同時に、ある意味ではこんなに違 う世界での同胞愛みたいなものもあったんですよ。

JIBO:何時から日本にお住みですか。

アリエッティ:1984年に当時はECだった欧州連合の第4回ETP(Executive Training Program)の試験に合格しました。、コースは 1985年から始まりましたが、このコースの中で特に気に入ったのは企業実習でした。兼松、日興証券など違った会社を内部 から知る事が出来ました。コースが終わってから、私の勤めているこの銀行の代表事務所開設の仕事をしました。

JIBO:日本で銀行を開設する手順とはどのようなものなのですか。

アリエッティ:先ず、大蔵省と接触します。所謂ウェルカムレターを受け取るべく、一連の情報を提供します。ウェルカムレターが一種の 許可証みたいなものです。それから代表事務所開設となります。この手続きに3ヶ月から6ヶ月かかります。代表事務所を開 設してから1年たった時点で支店への変更手続きができるようになりますが、許可が下りるまでさらに6ヶ月の期間がかかり ます。今も全然変わっていませんよ。

JIBO:この国で何か変化があったと思いますか。

アリエッティ:ええ。この国は随分変わったと思いますよ。近づき易くなったといいますか、サッカー界一つとってももそうなのですが、 たいへん国際化が進んだと思います。まだ実業団リーグ時代よく試合を見にスタジアムへ通いました。住金鹿島だとか日 産、読売といったチーム名だった頃です。いつも観客は少なく、大概は外国人で見に来ているのは私一人だけでした。上手 い具合にやったのですが、J-リーグ発足して、あっという間に日本のサッカーは何世代も人々の血の中に続くもののように さえなってしまいました。私が日本のサッカーで好きなことの一つに応援があります。好きなチームの応援であって、数少 ない例外を除いて、チームをこき下ろすような事が無いことです。それから、変わった所といえば、普通まだ高いとはい え、色々な分野で外国製品の品揃えが格段に増えたってことでしょうか。

JIBO:日本の金融ビッグバンをどう思いますか。

アリエッティ:さまざまな抵抗もあって、当初言われていたほどのスピードで進んでいないのは確かだと思います。時間と圧力、特に外圧 によってシステムは大分変ると思います。たいへん大まかな言い方ですが、製造業者、特に輸出もしている企業は組織改変 の手を打ちましたが、公共費に支えられていたり、各種規制に守られている非製造業では今のところ特に組織改革などに乗 り出そうというところは少ないようです。

JIBO:日本における御社グループの意味合い、特にアリエッティさんの仕事はどういった事でしょうか。

アリエッティ:私どものサンパオロIMIグループですが東京の支店はルイジ・ランドーニが支店長を務めています。東京支店はサンパオ ロIMI銀行のアジア地域での活動拠点で、シンガポール支店、北京、上海、バンコク、ムバイ各代表事務所を統括していま す。IMI銀行は証券会社の代表事務所も持っていまして代表はマルコ・フルロッティです。 私ども支店では東京及びその他アジア地区の金融市場で実際の金融取り引きを行っておりまた、日本に進出しているイタリ ア国籍の顧客、その逆に、イタリアへ進出している日本籍の顧客の活動のお手伝いをしています。私はといいますと、弊行 のネットワーク、在日のイタリア人及び外国人クライアントとのコンタクト、国際監査、エアクラフト・ファイナンス、本 店のためのコレスポンデント・バンキングなどを担当しています。

JIBO:日本に進出しようというイタリア企業にアドバイスするとしたら、どんなことがありますか。

アリエッティ:この国での15年を越える業務経験から全ての業界について言えることは、

* もし日本に進出したいならばこのマーケットにふさわしい競争力のある製品を持っているという確信が必要でしょう。試 してみるというのでは駄目です。そして出来るだけ多くの情報を集めることです。

* 日本市場という市場は長期的には払いのいい市場です。でも本社側の注意が肝心です。特に製品の改良に留意する必要が あります。日本に進出していると、市場からのフィードバックのおかげで、製品全体の品質改善に役立つと言う企業がたく さんあります。

* まだまだ、初期段階はコストがかかりますが、後々起こりうる諸々の問題を回避するためには、出来るだけ直接的な進出 が望まれます。

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このインタヴューを通して、アルベルト・アリエッティさんはたいへん落ち着いたナイスガイだ思いました。日本社会に対 する深い洞察もさることながら信用できる男という印象が一番強く残りました。(K.M.)

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