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ITALY NEWS
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2008/12/30 


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バチカンに考える
第2回 文明論の視点から視たカトリック教会


駐バチカン大使  上野 景文

1.はじめに
話は4世紀前に遡るが、徳川幕府は、キリスト教禁教令に基づき、江戸時代初期国内各地で多くのキリシタンを処刑した。先月(11月)下旬、ペドロ岐部はじめ、日本各地で殉教した計188人のキリシタンを「福者」に列する「列福式」が、長崎の県営スタジアムで、3万人の参加者を集め、盛大かつ厳かに執り行われた。法王代理として列席したサライバ・マルティンス枢機卿より、「(法王が)188人を福者の列に加える」旨の宣言が発せられると、会場は拍手と歓声で包まれた。カトリック教会では、特別に尊崇の対象となるキリスト者を、「聖人」ないし「福者」として称えており、日本関係(日本人とは限らないが)では、これまでに42人が聖人、205人が福者に列せられている。

写真@A:長崎の188人列福式 

私も参列したが、何より感心させられたのは、カトリック教会が有している「息の長さ」。何しろ、江戸時代初期のことと言えば、日本では現在と完全に切り離されていることが多いと思うが、カトリック教会にとってはそうでないようだ。400年後に「過去をよみがえらせる」かれらの時間(歴史)感覚、「しつこさ」には脱帽の思いであった。
ところで、この「しつこさ」は、カトリック教会が初期の段階から有している体質であり、文明的・文化的特質であるように思われる。そこで以下、文明文化論的視点から、カトリック教会の特質を探ってみたい。

2.特質1: 継続性、歴史性
ローマ法王をトップに頂く法王庁の最大の特色は、2千年にわたる継続性だろう。歴史の古い国は少なくないが、統治機構が断続しているケースが大半で、継続性という観点からは、法王庁と日本の皇室が双璧だ。
ところで、法王庁には、「Holy See(HS)」と「State of Vatican City(SVC)」という2つの正式国名がある。前者のSeeというのは「椅子」のことで、Holy Seeは「法王聖座」の意味だ。つまり、HSは初代法王聖ペテロ(写真)の座っていた椅子のことであり、更には、歴代の「法王の座」のことだが、転じて、「法王国」をも意味する。つまり、このHSという公式国名は、聖ペテロ以来の2千年の歴史を感じさせる、カトリック色の滲んだ名称なのだ。

これに対し、SVCの方は、領土問題で60年にわたり公式関係を絶ったHSとイタリア王国が、1929年に法王庁ゆかりのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会(写真)でラテラノ条約を結んで和睦した時に、条約の中に登場した国名で、80年弱の歴史しかない。
つまり、HSとSVCは、何れも正式名だが、HSの方が遙かに由緒がある。国と国との公式の関係では、HSが使われることが多い。早い話、法王庁が派遣する大使は、あくまで「HSの大使」であり「SVCの大使」と名乗ることはない。

此処で重要なことは、初代法王たる聖ペテロは、キリストから直々に「私の羊の世話をして貰いたい」と後を託された使徒であった点だ。つまり、聖ペテロは、「信徒(羊)を導く(司牧する)」ようにとのキリストの言葉により、「正統性」を与えられた訳だ。以降、現法王ベネディクト16世(265代)に至るまで歴代法王は、このペテロの「後継者」と言うことで正統性が与えられてきた。
すなわち、カトリック教会の権威は、「現法王→前法王→前々法王→・・・・・→聖ペテロ→キリスト」という「正統性の連鎖」により支えられており、最終的には上述のキリストの言葉に遡る。


写真B:聖ペテロ像
(サン・ピエトロ寺院内)

写真C:聖ペテロ像(サン・ピエトロ広場)
この点が、教会の権威を否定し、聖書のみに依拠するプロテスタント教会との根本的違いである。だから、カトリック教会は、「正統性の連鎖」によって権威づけられていないプロテスタント教会は「真の教会」ではないと、クールに片付ける。それにしても、2千年にわたり「正統性」にこだわり続けて来たかれらの「しつこさ」は、天晴れと言うほかない。
因みに、「正統性の連鎖」が連続性を支えているという意味ではHS(カトリック教会)と日本の皇室とは似通っている。

3.特質2: 普遍性、世界性
前項では、ローマ法王は聖ペテロ以来の「正統性の連鎖」により権威を授けられている点に触れたが、法王は、世界中の司教(3千名弱)を任命することにより、かれらに権威を授け、次いで、各司教が自分の司教区の司祭を叙階し(世界全体で約27万名)、権威を授ける。つまり、世界中の司祭は、司教を通じて法王に結びつき、更に法王を通じて「聖ペテロ→キリスト」にまで連がるということで、そこには「正統性の(世界大の)拡散」がある。
11億人に及ぶ信者を擁するカトリック教会の「世界性」については、よく語られるが、大抵は、「世界中に根を張っている」ことへの指摘(それ自体にすごいことだが)にとどまり、「正統性の拡散」への言及は稀だ。が、この点にこそ、カトリック教会の本質、真髄がある。
つまり、カトリック教会の「普遍性」は、法王の司教任命権抜きにはあり得ないと言うことであり、だから、法王庁が中国との間で現在進めている外交関係正常化交渉で、「内政干渉」に連がるからと言って法王の司教任命権を認めたがらない中国に対し、法王庁が任命権を放棄して妥協することは考え難い。
なお、同じキリスト教会でも、ロシア正教会やルーマニア正教会のような(東方)正教会では、国ごとの総主教を超える存在はない。また、かれらは国単位で存在するので、ナショナリズムと結びつきやすい。逆に、プロテスタント教会は、国と無関係に、バラバラに存在するので、ナショナリズムと結ぶ着く土壌はない。
これに対しカトリック教会は、国を超えた形で存在するので、長所を言えば、法王は、イタリアやフィリピンといった個々の国の国益に縛られず、より普遍的レベル、より人類的レベルで、自由に発言できる立場にいる。だから、法王は、平和、紛争解決、軍縮、人権、マイノリティー・婦女子擁護、貧困・・・・などのグローバルな問題につき、絶えずメッセージを発出し続けている。その様は、まさに「国際社会のお目付役(ご意見番)」、(私流に言えば)「国際社会の黄門様」と言うべきものだ。

写真D:Xマスツリーの入ったサン・ピエトロ広場、E:サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会 

4.継続性 + 普遍性 = 柔軟性(工夫・妥協の名手)
考えてみれば、カトリック教会は、2千年を生き延びる過程で、或いは、世界性を達成・維持する過程で、多くの「工夫」をして来たものと目される。たとえば、中世初期ケルト族への布教の実をあげるべく、地母心信仰を取り込み、聖母信仰としたこと、各地で「聖人」や「福者」を顕彰し、土地の民衆の心を引き留めていること、科学問題、たとえば進化論に関し、(米国のプロテスタント保守に比し)柔軟に対応していることなどは、カトリック教会の示している柔軟性、工夫の事例と言えよう。
そもそも、キリスト教は、創造主(神)が余りに抽象的であるため、神と人間の間にキリストという「中間項(パラメーター)」を設けようということで生まれたと言える(イスラムはそのようなパラメーターを設けていない)のだが、カトリックの場合、それだけではまだ足りないと言うことで、更に、聖母、聖人・福者(注)、法王、教会など様々な「中間項」を追加した。その結果、「わかりやすさ」、「親しみやすさ」は格段に増した。これに対し、プロテスタントは、個人はキリストと直接向き合うべきで、「中間項」は不要だとして、これを排除した(聖母信仰、聖人・福者尊崇など)。(チャート参照)

(注)聖人○○が祀られている「聖○○教会」とは、日本式に言えば「○○神社」ということになるので、日本人にとってはわかりやすい。

別の言い方をすれば、カトリック教会は、「目に見えるもの(visibility)」、「形のあるもの(tangibility)」にこだわりを示す。聖ペテロ以来の「正統性の連鎖」へのこだわりはその一例だ。また、ローマのイエズス会系のジェズ教会に行くと、我が国でおなじみの聖フランシスコ・ザビエルが祀られている。よく見るとガラスケースに入った師の「右前腕骨」が安置されており(遺体はインドのゴアに祀られている)、人々の参詣が絶えない。これも、カトリック教会が「形のあるもの」にこだわる事例の1つだ。対照的に、プロテスタント教会で骨が祀られることは先ずないという。更に、カトリック教会は教会を装飾することに熱心で、画家や彫刻家を動員した結果、多くのすぐれた美術作品を生んで来た。これに対し、プロテスタント教会は、美術作品で教会を飾るという発想が稀薄だったため、美術振興に貢献しなかった(音楽だけは発展したが)。
繰り返すが、プロテスタントは、神と人間の間に「中間項」を設けるとキリスト教の純粋性が損なわれる、「中間項」は「不純」だ、としてこれを排除してしまった。文字通りの「純化思想」であり、原理主義思想と言えよう。

チャート : イスラム、プロテスタント、カトリックの違い
○イスラム :2層構造
  創造主―――――――――――――――――――――――――――  人間
○プロテスタント:3層構造
  創造主―――キリスト ――――――――――――――――――――  人間
○カトリック :多層構造
  創造主――キリスト――聖母;聖人、福者;法王、教会;美術装飾―――  人間

以上大雑把にまとめるなら、カトリック(教会)は「妥協(工夫)の名人」であり、現実主義的であるのに対し、プロテスタントの方は、「理念・イデオロギー(の純粋性)にこだわる」傾向が強い。
だから、プロテスタントの影響が今日なお強く残る米国では、外交はイデオロギー色の強い、モラリズムに彩られたものとなることが多い。これに対し、カトリックの影響がなお残る欧州では、外交は概してより現実主義的だ。両者の間にこのような違いがあることは、宗教文化の違いに遡って考えれば、何ら不思議なことではない。
同様に、米国的風土で育てられたビジネスモデルは、市場主義イデオロギー突出型になりがちなこと、欧州で育ったモデルはイデオロギーの抑制がよりきいていることも、宗教の違いに立ち返ってみると、うなずける。

5.まとめ: 日本(人)の視座から見ると
本稿では、カトリック教会の話から始め、ついで、乱暴なまとめ方になったと思うが、文明論的視点から見た「欧州と米国の違い」に踏み込んだ。全体を通じて3点お話し出来たと思う。
第1は、日本人には見えにくい「欧州と米国の違い」を探るにあったては、カトリックという「補助線」が有効だ、と言う点。「補助線」を引くことにより、(それまで見えなかった)欧米の違いが自然に見えてくる。
第2は、多神教的発想の強い日本人は、概して、一神教的イデオロギーの強い思想は使い心地が悪く、むしろ、イデオロギーが抑制されたカトリックの発想の方が馴染みやすいと言う点。更に誤解を恐れずに言えば、カトリックにはなにがしか「日本的なところ」すらある(勿論、そうでないところの方が多いが)。
第3は、イデオロギーが突出する形でしばしば走り出す米国に対するブレーキ役として、国際社会における欧州の役割は重要だという点。この点は日本でもう少し語られて良い。

写真@A 提供:日本のカトリック中央協議会  写真BCDE 撮影:奥山書記官、コロー職員


◆執筆者プロフィール
上野 景文 (Ueno Kagefumi) 
 駐バチカン特命全権大使
1948年生まれ。1970年東京大学教養学部を卒業し、外務省へ。英ケンブリッジ大学修士課程修了(経済学)。スペイン公使、メルボルン総領事、駐グアテマラ大使、国際研修協力機構理事を経て、2006年より駐バチカン大使。文明思考家、アミニズム論考家としての顔を持つ異色の外交官。
著書に「現代日本文明論ー神を呑み込んだカミガミの物語」(第三企画)ほか。論文、エッセイ多数。

 

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