JAPAN-ITALY Business On-line
0 BUSINESS ON-LINEITALY NEWS

COFFEE

2008/10/31

HOTなエスプレッソITALY WEB SITE編集BACK NUMBER

HOTなエスプレッソ 



田中ちひろ

京都生まれ、91年よりミラノ在住。三井住友保険会社ミラノ支店勤務の一方で、日本、イタリア、フランス等各国で 異文化間マネージジメント、コミュニケーション、NLPセミナー・トレーニングを行っている(www.global-excell.com)。執筆は「普段着のミラノ案内(晶文社)」をはじめ各種新聞雑誌コラム等多数。

 

2008/9/30

54. 「闇の中の対話」

光ひとつ差さない真っ暗な闇の世界、都会にいればどんなに暗いと思っても目が慣れてくると多少の明暗や、何かの影がうっすらと見えるものだが、それすら許されない本当の闇、そんな世界を先日体験した。170年の伝統を誇るミラノの盲人学校で「闇の中の会話-dialogue in the dark」のツアーに参加したのだ。
ツアーは約1時間半、荷物をロッカーに入れてカーテンをくぐると、薄暗い入り口で白い杖を渡される。杖の使い方の簡単な説明をうけたあと次第に光が遠くなっていく廊下を進むと、まもなく本当に何も見えない闇の世界に到達した。あまりのインパクトの強さに身動きが出来なくなってしまった私たちを明るく迎えてくれたのはガイドのジュリアーノ。彼自身、目が見えない。自己紹介する私たち一人ひとりの肩や腕に触れながら力強い声で冗談を連発しては私たちの気持ちをほぐしてくれる。

「さぁ、僕に続いて」といわれ、その声の方向に恐る恐る足を踏み出す。白い杖で足の前方をしつこいくらいチェックして、もう一方の手は壁に沿わせる。他の人とぶつかっては謝り、声を確認しながら、一歩一歩が大仕事。皆が口々にジュリアーノを呼びながら大変な時間をかけてようやく庭にたどり着いた。
まず、床がじゃりになった。壁がなくなり、空をさぐった手が木の固い感触にぶつかった。ほのかな空気の動きが頬に感じられ、鳥のさえずりと水の流れる音が聞こえた。ジュリアーノが手をとって導いてくれる。「これが花、これが椰子の木の幹、ここからが木の橋....」
視覚が全く使えない分、他の感覚が必死で情報収集をする。普段使っていない感覚が目覚め始めたのか、一緒に参加した6人の声はすぐに聞き分けられるようになった。
じゃりが細かい砂になるのが靴を履いていても分かる。そばに誰かがいる気配、その人の服の肌触りでそれが誰なのかも分かるようになってくる。
そんな驚きに感動しながらも坂道が怖くて降りられない。ボートの乗りうつるといわれて杖の先が触れた水の音に一人の女性が叫び声をあげた。

感動よりも恐れが大きくなり始めるたびにジュリアーノが気づくのは偶然なのだろうか?大きな手でしっかりと肩を抱いてくれるだけで限りない安心感がひろがった。
漁師の家をおとずれ、市場に行く。市場の屋台にあるものを 手で触れてにおいをかぐ。「これはジャガイモ、これはレモン、でもこのレモンは少し古い!姿が見えなくてもそんなことまで分かる!」
すこし闇に慣れたのか、みんなの声も心持ち明るくなったと思ったら、今度はいきなり都会の真ん中に到達した。
こんなにたくさんの騒音があったなんて......
車の音、人の足音、クラクション、ざわざわとした雑踏など耳を覆いたくなるような無数の音とその情報の多さに圧倒され、歩道と車道の段差や無造作に駐車してある自転車やバイクがいかにおそろしいものかを実感し、次第にみんな無口になっていく......

やがて、そんなみんなを励ますようにジュリアーノが私たちをバールに案内した。
表のドアを閉めると、店内のピアノの音が私たちのこころを包んだ。
杖と手の両方でテーブルと椅子を確認し、腰を下ろす。これまた盲人のウエーターが暗闇の中でひとりひとりに触れながら挨拶をし、その手にグラスを持たせてくれた。

ジュリアーノは生まれたときから目が見えなかった。
色やもののかたちを一度も見たことがない彼にとって、それでも色や形を表す言葉は世界をよりゆたかに彩る(!)大切な要素だという。
目の見える女性と結婚をし、7歳の子供がいる彼は日常生活を私たちと同じように過ごしている。
PCや携帯電話のメッセージも文字を音に変換するソフトで私たちと同じように使う。
地下鉄に乗って移動するし、マーケットで買い物もする。
日常生活でよく困ることは?という質問に 部屋の電気を消すのを忘れることと答えた。
冗談だと思って笑った私たちに、「ボクにとっては変わらないが、翌月の請求書は変わるんだよ」とはじめてまじめな声をだした。

盲人学校の仕事だけでなく、最近はラジオの仕事も始めたという。
暗闇のバールで、ハンディーキャップのある人はかわいそうとどこかで思っていた私たちは、その明るさと意志の強さに魅せられ続けた。
ジュリアーノの言葉がいまでも頭の中をこだまする。
大切なのは常に恐れに打ち勝つこと、常に自分を超えること。
あの力強い手と声は同時に限りなく優しかった。

 


2008/10/31

ITALY WEB SITE 
英語で楽しめるイタリアの注目WEBサイトの紹介


イタリア下院Camera dei deputatiの公式サイト
http://english.camera.it/


10月下旬に全面リリューアルしたイタリア下院(Camera dei deputati)の公式サイト。 プレスリリース、国会審議中の懸案の詳細、各種掲載記事などを容易に検索できる。また下院の全議員のプロフィールに加え、各議員に直接メール発信もできるようになっている。



2008/10/31
編集後記
ミラノの産業考古学
―セスト・サン・ジョヴァンニの「歴史への旅」―

10月のはじめに、ミラノの地下鉄リネア・ロッサ(赤い線)の終点でもある「セスト・サン・ジョヴァンニSan Sesto Giovanni」を訪れ、同市の「産業考古学」を軸とした興味深い取り組みを知る機会を得た。セスト・サン・ジョヴァンニ市はミラノ市の北側に隣接する人口約7万9千名の小都市である。

もともとは農業集落として発達し17世紀、18世紀にはミラノ富裕層のヴィッラ(別荘)がつくられたという静かな農村地域が大きな転換をみせたのは1900年代初頭のことである。製鉄所や鉄道製造工場など大規模な生産工場が次々と建てられ、イタリア重工業発達の中心軸となり、セストは「工業都市」(Citta' delle fabbriche)、「労働者の町」として知られてきた。

たとえば1903年に蒸気機関車の生産工場を建設し、その後、汽車、電車、地下鉄車両、航空機などの製造を行っていたブレダBreda社は2万人の労働者をかかえていたという。1906年に創立し、イタリア最大の製鉄業グループに成長したファルックFalck社は全盛期には従業員9千名の工場をこの地で操業していた。

かつて、小中学校で「イタリアの工業三角形」としてミラノ、トリノ、ジェノバの三都市の存在を習った人も多いだろうが、「工業都市ミラノ」のかなりの部分を実質的に担っていたのがこの「セスト」の町であるといっても過言でないようだ。1970年以降、重工業が下火となる中でこの町に集積していた工場はすべて規模を縮小し80年代から90年代初頭にかけて完全操業停止、一部は新業態への転換という運命をたどった。同市内には「膨大な元工場跡地」という「負の遺産」が残された。

近年セストの町が取り組んでいるのは、「工業都市」としての過去を「負の遺産」としてはなく、「歴史的遺産」として町の変遷の歴史や工業建築物を再評価し、まちづくり、観光文化資源としても活用していこうというもの。「イタリアのみならずヨーロッパでも1世紀の間にこれほどの変換をみせた都市は少ない。非常にユニークな事例」と語る同市のジョルジョ・オルドリーニ市長。
上述したブレダ社の工場跡の一部は、現在、産業考古学公園となり、1906年に製造された蒸気機関車や当時の大型橋型クレーンが記念碑的に設置されている。公園内には元工場の一部がSpazio MILというスペースに転換され、本格的な劇場とおしゃれなレストラン&バールがある。現在、開設準備中の工業・労働博物館Museo dell'industria e del Lavoroがオープンすると同市の興味深い見所となるに違いない。一方、ファルック社の広大な工場跡地は、イタリアを代表する建築家レンゾ・ピアノの設計による大規模な再開発プロジェクトが進められる予定だ。

10月、11月には、市民や子供たちを対象とした「セスト・サン・ジョヴァンニの歴史の旅」として旧工場跡地やその転換ぶりを訪問する見学ツアーを同市が企画したところ、定員をオーバーする予約が入り、開催日を急きょ倍増したと市の担当者が嬉しそうに語っていた。ツアーの案内役は専門ガイドに加え、実際に工場で働いていた「元労働者」の方々。ツアーの最後には、「労働者のおやつ」として「モルタデッラ・ソーセージをはさんだパニーニ」が振舞われるなど楽しそうな催しだ。


2008年10月31日
JIBO編集室
大島悦子 (Etsuko Oshima)



TOP

ご質問・ご意見は/e-mail:jdesk@japanitaly.com
www.japanitaly.com
(C)Japan Plus Italy Co.,Ltd All right reserved.